2015年1月1日 第192話             

新しい私を生きる


   
薪は灰となる、さらにかえりて薪となるべきにあらず。
   しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。

           道元禅師「正法眼蔵・現成公案」
            

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり  
芭蕉

 松尾芭蕉は過ぎゆく月日も旅人のようなものと、時の流れと人生を重ねてよんでいます。人生を一つの旅にたとえると、毎日が先の見えない旅の途中です。その旅の途中で、人はつまずいたり転んだり、笑ったり泣いたりしながら人生という旅をしています。でも、それがいつ終わるのか、長い旅になるのかは予測できません。

 芭蕉の時代は歩いて行く国内の旅でしたが、現代では世界中どこへでも旅をすることができます。日常を離れて旅に出るのは、どんな旅でも楽しいものです、それはまた帰るところがあるからでしょう。旅の終わり帰る頃になると、もっと旅を続けていたいと思う。すばらしい景色や美味しい食べ物、よき出会いがあると、帰りたくないと思います。けれども、昔も今も、帰るところがあるから旅は楽しいのでしょう。

 ところが、人生という旅は、帰ることのない往くだけの旅です。過ぎゆく時を戻すことができないから、もう一度という旅ができません。だから人は旅の途中で立ち止まって、これまでの自分の歩みをふり返ることがあります。そして、これでよかったのだろうか、進むべき道を間違えていないかと、もの思いにふけることがあります。

 人生という旅の途中で、人は歩んできた過去に納得したり、悔やんだりもします。旅の途中で挫折して、歩く元気をなくしてしまったり、先を見て歩く勇気を失って、座り込んでしまう人もいます。けれども、また人は歩き始めます。それは旅に終わりがあることを、だれもが知っているからです。新しい年、2015年(平成27年)の旅が始まりました。

門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし 一休禅師

 なにげない日常に思わぬことが起こるものです。交通事故をおこしたり、事故に巻き込まれたりするかもしれません。また、温暖化の影響なのか、かつて経験したことのないような豪雨災害が増え、台風や竜巻が多く発生しています、地震や火山の噴火は予知し難いもので、こうした自然災害が多くなると、誰もが被災するかもしれないのです。


 最近、駅や飛行場、劇場のみならず身近な所でも、AED(エー・イー・ディ)と書かれた医療器機を見かけます。このAEDは、突然に心臓停止して倒れた人を、そこにいる人たちが、その場でこれを使って救命する医療器機です。突然に命を落とす、そういうことが多いから、AEDがあちらこちらに備えられているのでしょう。

 年の初めには門松を立て、しめなわを飾り、この一年がおだやかで安らかな幸せな日々であることを願います。ところがめでたいはずの正月に、祝いの餅で喉を詰めたり、初詣の道中で落命することもありうるのです。遅かれ早かれ命あるものは、いずれ死んでいきます。一休禅師は「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠まれた。

 生あるものは死あり、このことは、何人も平等ですが、どのように生きたのか、どのように死んでいったかは、それぞれ異なります。人身得ること難しで、人としてこの世に生まれてきたことは善生の勝縁というべきであり、いたずらに無常の風にまかすることなかれと、道元禅師はいわれました。新しい年の初めに、この一年がよき日々であることを願いましょう。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり  道元禅師

 すべてのものは、同じ姿を止めていません。昨日の私も、今日の私も、そして明日の私も、同じ私だと思っているのは自分の思い込みであって、自分という身体を構成している五十~六十兆個の細胞は、絶え間なく死んだり生まれたりしています。

 一呼吸の間ですら、古い細胞が一千個死んで、新しい細胞が一千個生まれます。すなわち昨日の私、今日の私も、明日の私も、みんな異なる私です。今、一瞬にも、私自身は新しい私に変わりつづけているのに、同じ私であると思い込んでいる。これが妄想であり、悩みの根源でもあります。だから常に、過去にこだわらず、新しい私を生きるべきです。

 インターネットの時代では瞬時にして双方向の情報が飛び交います。しかも、国境や地域という隔たりのない地球を一つとして、すなはちグローバルに人も物も、お金も、情報も動きます。こういう世上に生きるものにとっては時流に流されないように、「今」という「時」をよく認識して、しっかりと足元を定めて、進むべき道を間違えないようにしたいものです。

 「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。」、道元禅師は冬の時は冬、春は春のみ、夏は夏で、春の夏になるといわない。だから「生も一時のくらい、死も一時のくらい」と、生死をこのようにいわれた。
 時とは「今」です、進むべき道を間違えずに世上を生きぬくために、常に新しい私を意識して生きぬきたいものです。

灰はのち薪はさきと見取すべからず 正法眼蔵・現成公案」

 道元禅師は生死を、薪と灰にたとえて「薪は灰となる、さらにかえりて薪となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。」、生死とは、「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。」と教えられました。すなはち、生きているのは「今」です。だから過去にこだわらない生き方が大切でしょう。明日のことだと思っていても、もうその時になれば今です。未来はすぐに今になり、そして過去になってしまいます。

 「今」、という時に生きています。けれど、それは一瞬のことで、そう思った時には、すでに過去になっています。まさに生きている今とは、瞬
(またた)きの刹那(せつな)です。時間の戻しがきかないのに、今がよければ、今が楽しければと、のんびりとして貴重な時の流れを浪費していませんかと、道元禅師は問いかけています。

 人生時計には過去も未来もありません、生きている「今」、「ただ今」と文字盤に刻まれているだけです。そして確実に人生最後の時刻に向かって「今、あなたは幸せですか」と、コチコチコチと音を立てながら命という人生時計は「今」という時を刻んでいます。

 新しい年の始まりである1月1日を元日といいますが、365日の日々が新しい時のめぐりです。新しい日に新しい私を生きるとは、過去にこだわることなく、いつも未来志向で今を生きるということでしょう。今を生きることが過去を生きることであり、未来を生きることでしょう。時の流れの中にあって、「今」、新しい私を生きる、この一瞬の命の輝きに心ときめかせて喜びの心で生きることができれば、それが幸せということでしょう。

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