2014年10月1日 第189話             
               無説無聞

峰の色 谷の響きも 皆ながら
 吾が釈迦牟尼の 声と姿と
 道元禅師

                                  

黒田官兵衛 「水五訓」

 NHK大河ドラマの黒田官兵衛が好評です。黒田孝高は通称名で黒田官兵衛といい、出家後の号は如水で、黒田如水の名でも知られた戦国武将です。黒田官兵衛は戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した。嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政です。

 黒田官兵衛は織田信長、豊臣秀吉に仕えた。備中高松城水攻めと、本能寺への明智光秀急襲による織田信長の死にともなう中国大返しは、黒田官兵衛の献策として広く知られています。
 
 「如水」と号した黒田官兵衛の『 水五訓 』

一、自ら活動して、他を動かしむるは水なり。
二、つねに己れの進路を求めてやまざるは水なり。
三、障害にあいて激しくその勢力を百倍し得るは水なり。
四、自ら、潔うして、他の汚濁を洗い、清濁あわせ容るる
  量あるは水なり。
五、洋々として大海をみたし、発しては雲となり、雨雪と変じ、
  霧と化す。凝っては玲瓏たる鏡となり、しかもその性を
  失わざるは水なり。

 黒田官兵衛は有能な人材の育成に長けていたと伝えられています。「如水」と号した黒田官兵衛は人間の指導とは自ら行じることであると、この「水五訓」をあらわした。これは現代でも多くの共鳴者があります。

熊沢泰禅禅師 「石徳五訓」

永平寺第73世熊沢泰禅禅師は94歳の時に『 石徳五訓 』を作られた。

一、奇形怪状、無言にしてよく言うものは石なり。
二、沈着にして気精永く土中に埋もれて、
  大地の骨となるものは石なり。
三、雨に打たれ、風にさらされ、寒熱に耐えて、
  悠然動ぜざるは石なり。
四、堅質にして、大厦高楼(高層建築)の基礎たるの
  任務を果たすものは石なり。
五、黙々として、山岳・庭園などに趣きを添え、
  人心を和らぐは石なり。

石の形状も大小も様々である。
石は無言であるけれど、さまざまに語りかけている。
千万年も大地に埋もれていても不平一つもらさず、
常に大地を支えている。
雨が降ろうが風が吹こうが、寒い雪の下であろうが、
熱い炎天の下であろうが、悠然たる態度で不動の姿をしている。
石は堅いから、大きな建物の土台として用いられ、
よくその期待に応じえて、その任務を全している。
だが、堅いばかりが能ではない、
そこに面白みがなくてはならないが、石にはそれがある。

 永平寺の総門(正門)として左右に石柱が建てられています。それには「杓 底一残水」「汲流千億人」と刻まれています。これは熊沢泰禅禅師の揮毫によるものです。

    題正門(熊沢泰禅禅師)

   正門当宇宙 (正門、宇宙に当たる)
   古道絶紅塵 (古道、紅塵を絶す)
   杓底一残水 (杓底の一残水)
   汲流千億人 (流れを汲む千億の人)

神応寺 「竹徳五訓」

 竹林の多いところに住んでいますと、5~6月の竹の葉替わりの時期には落葉の掃除に悩まされます。けれども、日々、竹を目にしていると竹のすばらしさが感じられる。そこで『 竹徳五訓 』をつくりました。

一、竹の子の如く生き生きと
二、竹まっすぐが如く実直に
三、竹しなるが如く柔和に
四、竹節の如く節度あり
五、竹根の如く繁茂せん

タケノコが早くのびるので、
その勢いに圧倒されそうです。
竹は真っ直ぐに生える、
まじめで素直な性格です。
「竹笑」といって強い風が吹いても、
吹くままに身を順応させる。
竹に上下の節ありとは、
ありのままに節度節操を守る諭しでもある。
竹という植物は地下茎によって、
堅実に目立たぬところで繁殖する。

 竹は木のように毎年太ることはない、余分の栄養分は地下茎に蓄えて、タケノコの成長にまわる。数十年の間をおいて竹に花が咲き、地上の竹が枯れてしまうことがありますが、地下茎から新しいタケノコが出て数年で新しい竹林になる。
 タケノコは地中にあるときすでにそのタケノコはどれくらいの高さに、そして太さになるのかがすでに決まっている。もし人間も生まれた時にすでにその人の一生が決まっているとしたらどうでしょうか。

 竹はタケノコとして、毎年、一時期にだけ新しい竹が生まれる。三年生までの竹は残し、四年生からの竹を切り、七年以上の竹を残すなという竹の管理方法を教えた言葉があります、これは適材適所が大切という意味だそうです。
 苦節10年、どんなに苦しくても10年辛抱すれば道は開ける、この節の語源は竹であると言われてます。竹から学ぶことが多いようです。

氷溶けて水、煩悩溶けて仏

 水は流体、石は固体、いずれも無機物です。竹は生物だから有機物です。おのおの物質は異なるけれど、そのものをじっくりと観察していると、そこからこの世のもろもろの真実の姿を読み取ることができる。

 けれども、美しさを求める心がない人には、石の声は聞こえない、千年の松の翠が見えません。
 「波の音 聞くがいやさに山家に住めば、またさわがしき松風の音」で、波の音がやかましいからと、住むところを変えて山家に移り住んでも、また松風が騒音になる。
 無情説法に心を向けない人には、波濤や松風が仏の声として聞こえてこないでしょう。

 陶器の魅力とは、壊れるところにあるのだと言う人もいますが、なにごとも、「逢うてわかれて、わかれて逢うて、末は野の風秋の風、一期一会のわかれかな」です。
 水であろうが、石であろうが、竹であろうが、物質が寄り集まって物体をつくっているから、何らかの理由で分散したら、いずれも空になる。

 氷溶けて水、「雨あられ雪や氷とへだつれぞ 溶れば同じ谷川の水」。
 煩悩溶けて仏、「渋柿の渋そのままの甘さかな」。けれども、とらわれの心、こだわりの心、かたよりの心ではその意味がわかりません。
 自分の心を静めたならば動中に静ありで、すべての存在は露わであり、そのままに真実を語りかけていることに気づくでしょう。深まりゆく秋の日、水の音、石の声に耳を傾け、この世の真実の姿にふれることの喜びを実感したいものです。

戻る