2011年3月1日  第146話
         生死を生きる 

    生也全機現、死也全機現 生を生ききり、死を死にきる                                         
 

葬祭を行うことによって人類は文化的な営みをするようになった

 イラク北部シャニダール洞窟で見つかったネアンデルタール人は、花を添え死者を葬っていたといわれる。葬祭とは葬式と先祖のまつりのことですが、動物は葬祭に類するような行動はしません、人間だけが死者に対する儀礼を行います。それは死の事実を超えて存在する霊魂や精霊の存在を認めることが前提となっています。

 人は死後どうなるのかについて、そのとらえ方は、民族や宗教によってさまざまです。しかしどの民族どの宗教においてもいえることは、葬祭が人間の文化にとって重要な意味を持つということです。サルは死んでも埋葬することはしませんから、葬祭を行うことによって人間は文化的な営みをするようになったといえる。しかもそれは死の恐怖や死別の悲しみの感情を超えた文化的な営みです。

 葬祭は、亡き人が死後の世界において安定した地位・身分を得る、すなわち死者が祖霊になるためのさまざまな儀礼のことです。ところが、葬儀は祖霊崇拝とは別のものであるとか、葬儀は、ただ別れを告げるだけの式だと理解している現代人が多くなり、葬祭に対する戸惑いがあるようです。

 人間は目に見える領域を超えて、目に見えない存在である霊魂や精霊、そして、それが行き住むところの、あの世を思いえがくようになったとき、文化を持つ人間になった。日本人は死者を亡き者とせずに、死の事実を超えて存在する霊魂や精霊の存在を認め、祖霊としてまつり、この世に生きるものの加護を願ってきた。「命の源」である祖霊をあがめ敬うことで、大地自然をしっかりと踏みしめた生き方ができる。ところが、祖先崇拝の信仰心が弱くなった現代人、とりわけ若者は地に足が着いていないから心の不安が大きい。

ほんとうに葬式は要らないのでしょうか、なぜ要らないのでしょうか

 お母さんを亡くされた息子さんから 「和尚さん、おふくろがいいところへ行けるようにお願いします」 娘さんからは 「先に亡くなったお父ちゃんのところへ、お母ちゃんもちゃんと行けますように頼みます」 そして、お孫さんからも 「おばあちゃんが天国に行けて、幸せになりますようにお願いします」 僧侶がお葬式をつとめさせていただくにあたり、こんな言葉をよくかけられます。

 僧侶は亡き人に仏の教えを授けて仏弟子として、「引導」をわたしてあの世へと導きます。その行き先は黄泉の国、冥土です。黄泉路に迷うことなく無事に冥土におもむかれますようにと、みんなでご冥福をお祈りします。かつては、人が亡くなると地域の長がその取りまとめ役をして、共同作業として地域の人たちによって葬儀が営まれました。

 いつの頃からか、都市部では葬儀業者が儀式のできる会館をもつようになり、そこでの演出は亡き人との別れを告げるものとして、告別式という表現が一般化しました。それにともない葬儀は「別れを告げる式」であると理解する人が多くなりました。葬儀は社会的な別れの場であるという認識が地方都市や農村地域にまで広がっています。

 葬儀は社会的な別れの場として必要な儀式であるが、高齢で亡くなると故人の社会的なつながりも小さくなっており、家族や親戚中心の葬儀となります。また「家」から「核家族」や「個」へと、生活形態も変わりました。家族葬という身内だけでという考えで、盛大な葬儀でなくてもよい。葬儀のかたちも、定まったものでなく、個人や家族の思いを反映させたオリジナルなものにしたいと思うようになりました。
 葬式は先祖祭りにつながる儀礼であったはずですが、最近では「別れを告げる式」と解釈する人が多いようです。したがって葬式に対する人々の考え方が急激に変ってきて、「葬式は必要か」「葬式は要らないか」「何のために葬式をするのか」などの議論が盛んです。

命のおちつきどころ

 人はこの世で悪いことをしたり問題行動を起こすと、成仏せず冥福が得られないと考えられてきました。黄泉路をたどって、あの世へ至るまでに関所があって、そこにはこわい閻魔様がおられて、一人一人の生前の生き方を問われる、そう伝えられてきました。完全な善人はいないけれど、この世で僧侶の導きにより仏の教えをいただき(受戒)、よりよい生き方をしてきた証として、お戒名を授かり、あの世へと旅立ち成仏して、子孫にあがめられ尊敬される祖霊となることを願います。

 かつては村の共同作業として葬儀が執り行われ、村の共同墓地に埋葬されました。やがて四十九日を経て死者の魂は「おやま」におもむき、ご先祖さま、すなわち祖霊となる。「おやま」は祖霊がおられるところで、村のお墓のさらにむこうの山などをイメージしてきました。その「おやま」から、祖霊が正月には歳神さまとして迎えまつられ、盆には精霊として迎えられ供養を受ける。葬儀は死者がその祖霊となる出発式であり、僧侶の引導で送られ、四十九日間の供養を受けて、無事に冥土に到達し成仏した祖霊となることを祈ります。

 今日ではほとんどが火葬だから、焼骨を墓地に埋葬します。ところが自然葬と称して木の根元にお骨を埋葬したり、海に散骨することもあるようです。肉親や縁者との心の結びつきは、やはり特定された命のおちつきどころである墓地に埋葬することで、長く絆が保たれます。最近では埋葬して大地自然にかえさずに納骨堂に納めたり、肉親の骨壺を納骨しないで身近に置いておられる方もあるようです。そのうち月や火星に納骨するという時代がくるかもしれませんが、はたして死者の魂の行き先である「おやま」におもむくことができるのでしょうか。

 命のおちつきどころであるお墓や仏壇で、子々孫々にまつられるはずの祖霊ですが、昨今では後継者がいなくなったので、どうすべきかなど、さまざまな問題が生じてきました。その昔は一族一統が同じ墓所にまつられ、一族で先祖をまつったけれど、昨今ではそうはいきません。命のおちつきどころさえままになりません、まつり手が無くなれば、お寺へ永代供養を願い出ることになります。

その人の生きざまが、そのまま自分の葬式を演出していることになる

 駒澤大学の佐々木宏幹先生は、お葬式について、「葬祭は亡き人が死後の世界において安定した地位・身分をうる、すなわち”仏になり、神になる”までの一連の過程において、故人のために営まれる一定の儀礼群を意味する。」と言われました。
 送る者(僧・家族・知人)があれば、一方には送られる者(死者)がある。お葬式としておこなわれることは、まず遺体の始末で、遺体を埋葬するか荼毘に付します。つぎには霊魂の処理です、霊魂の処理といってもタタリを鎮めるための儀式ではありません。そして遺族の心の整理ですが、悲嘆ばかりしておれません、葬式をあげるのに対処しなければなりません。

 送る者は社会的儀式として死者に別れを告げ、肉体を自然に帰し、魂を仏国土へ旅立たせる、古来より日本人の葬儀は魂の旅立ち、魂の再生の儀式でした。葬儀の準備は旅立ちのための用具をそろえ、旅立ちの場をつくることでした。そして四十九日間にわたり黄泉路の安寧を願い供養を続けることで、遺族の心もしだいに癒されていきます。そして亡き人の魂は墓石に、日常は仏壇の位牌にまつられることから、共生きの思いを抱き続けることができるので、家族は死別の悲しみを超えて生きる励みとなります。

 ある老人施設内でおこなわれた葬儀で、すばらしい光景に出会うことができました。お棺が置かれた左右にお花が飾られただけの簡素な式場でしたが、施設内のお仲間がみんな集まって、同僚を送りました。送棺にあたって 「あなたが先に旅立つことになりました、そのうち私も行きますから、先に行って待っててね」 「私が行ったらその時にはまた仲良くしてね、あの世でまたともに生きていきましょうね」 と、悲しみに涙しながらも、笑みを浮かべて、お花をお棺に入れました。そして車椅子の合掌の列の中を、お棺が静かに運ばれ旅立って行かれました。葬式は人間としてこの世から旅立つ 「人生の送別会」 であり、死はゴールでなく祖霊として 「永遠に生きる出発式」 である、そのことをあらためて実感しました。

 お釈迦様は霊魂や死後の世界について、何も述べていない、ただ、この世の生き方こそが大切であると説かれた。お釈迦様はご自分の葬儀のことも語られなかった、けれども弟子達や多くの人々によって盛大に弔らわれたと伝えられています。
 その人の生き方がどのようであったのか、人々に尊敬される人は、教えを受けた人々、お世話になった人々によって、感謝と恩返しの思いから鄭重に弔われる。どのような生き方をしたのか、その人の生きざまが、そのまま自分の葬式を演出していることになるでしょう。

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