2010年 8月  第139話
         生死即涅槃 しょうじそくねはん 
    
 生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。 正法眼蔵・生死


生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり

 ”人はいつかは死ぬのだ”、ということを、だれでも理解しています。けれども、さしせまった状況でないかぎり、日常ほとんど、自分が死ぬことを意識しません。でも、身近な人が死んだり、予期せぬ事故に遭遇したり、病に苦しんだり、そんな時、死の恐怖を感じます。また、老いを感じる年齢になると、いつかおとずれるであろう、命の終焉をふと思うことがあるでしょう。

 死は怖い、死を避けたいと思うから、私達は「生死」すなわち、生まれてきて、死んでいくということについて、あえて考えないようにしているのかもしれません。あるいは、自分の問題として「生死」を思わないのは、日常の生活や仕事のこと、目の前のことに思いをめぐらしているから、生死のことが念頭にないのかもしれません。

 人は生きていく上で、常に不安がともないます。仕事のこと、人間関係のこと、経済的なこと、家族のこと、健康のこと、さまざま不安はつきません。それで、その不安から逃れたい、不安を消し去りたい、不安の原因を取り除きたい、そして心の安らぎを得たいと願う。人はさまざまな不安を感じていますが、生死こそが不安の根本であり、生死にかかわらないような不安は、心配や悩みごとにしかすぎないのでしょう。

 修証義のお経の冒頭に「生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり」とあります。仏教の中心課題は「生死の問題」です。生まれてきたこと、死ぬということ、どういう生き方をすればよいのか、それを明らかにすることです。「生死を明らむ」とは、心の安らぎを得ることです、たやすいことではありません。
 今年もお盆の月になりました。ご先祖の精霊を迎える盆のおまつりは、日本人の古来からの慣習です。お盆は、ご先祖の精霊をむかえ「生死の問題」と向き合う一時です。


「生死を明らむ」とは、幸せになること

 生があるから死がある、死があるから生がある、これは一つのものです。生死を自然なこととして、ありのままに受けとめられたらいいのですが、生まれてきたことを喜ばず、死が怖いから、人は生死を自然なこととして受けとめることができません。すなわち死があるから、今、生きていることによろこびがある。死を恐怖と感じるならば、生まれてきたことや、今、生きていることが、どれほどすばらしいことであるかについて、もっと思いをめぐらすべきです。

 日常の生活や社会との関わりにおいて、片時も「生死の問題」から離れてはいけない。生死を受けとめ、生死を思うことが、生きる喜び、ほんとうの味わいのある生き方につながります。日々の生活において「生死の問題」を意識しない、それこそが問題です。
 常に生死の眼で観る、生死の耳で聞く、生死の心で生きることを心がけていると、自分の生き方を変えよう、変えないといけない、そう思いはじめるでしょう。

 死後の世界であるあの世のことは、この世に生きているものにとってはわからない世界です。ところがお盆には亡き人が、死後の世界、あの世から、この世に帰ってこられます。目には見えないけれど精霊として、お盆に帰ってこられます。それは短い時間ですが、亡き人やご先祖さまとともに過ごす、不思議な一時です。ところが精霊迎えのお盆のおまつりをしなくなったり、その意味を理解していない人々が増えてきたことは、さみしいことです。

 私たちは今ここにご先祖さまからぶっつづきの命をいただいて、二度とない人生を生きています。この命ある喜びに目覚めて、さまざまな命にささえられ、生かされていることに気づくことが幸福に通じます。お盆に命の源である肉親や先祖の霊を迎えて、静かに端坐し対話する、お盆の精霊まつりは「生死を明らむ」機会です、年に一度の安らぎの一時です。

神さんと、仏さんと、どっちも・・・命の源であるご先祖さま

 丹波地方には埋葬墓と詣り墓(清墓)の両墓制が多く、死を忌み恐れ、死者を見えない所の埋め墓に葬り、霊魂は村落の中や境内の清墓に祀り供養しました。近年火葬が多くなり、清墓に納骨する単墓方式に変わってきました。だが相変わらず死の恐れ(ケガレ)から、墓参の後、塩や灰で身を清めることはやめないようです。

 仏教が中国に伝わると、輪廻応報説をめぐり、人が死んだらその肉体に宿っていた霊魂は滅びるか滅びないかという論争が起こったそうです。日本人の民族的霊魂観では、死霊すなはち死者の霊魂は、はじめは荒ぶる魂(アラミタマ)ですが、子孫の供養を受けたる後は、和らいだ霊魂(ニギミタマ)になると信じられています。しかし供養や鎮魂の祀りが充分でないと、この世を離れられずに、子孫や係累に、祟りや、さし障りをもたらすとも考えられてきました。

 妖怪漫画家の水木しげるの「ゲゲゲの女房」のテレビドラマは今、大好評ですが、その昔、怨霊や物の怪祓いが盛んにおこなはれました。長い年月を経ると、霊魂は祖霊神となって子孫を守護し、幸福や豊作をもたらすと考えられました。ご先祖の霊(ミタマ)は位牌や墓石としてまつられ、お盆には精霊棚を設けて精霊(ホトケ)として迎えます。日本人は神棚と仏壇を同じ空間に祀ります。神という祖霊、精霊という祖霊をまつる、どちらも命の源であるご先祖さまです。

 自分がこの世に生まれたのは、受け難き人身を受けたからです、このことを喜びたい。先祖から途切れることのない命の連続において、父母から私へ、そして子へと続く命のつながりを尊びたい。この連続する命の源がご先祖であり、その命を受け継いで今、生きています。そして様々な命に支えられ、生かされているということを謙虚に受けとめたいものです。この謙虚な態度こそが生き方の基本でしょう。人の幸せとは何か、つきつめていくと「生きている」この一言につきるようです。

まだまだ、死にとうない!

 ”まだまだ、死にたくない”、死は怖いから、私達は、死を避けたいと、無意識にそう思っています。したがって日常生活で「生死」を問題にしたがりません。ところが、お盆には亡き人の精霊を迎えまつります、それで自ずから「生死の問題」に向き合うことになります。人の死に直面したお葬式の時とちがって、時の経過とともに落ち着きを取りもどしており、死を冷静に見つめることができます。亡き人を偲ぶことで、あらためてその人のことを思い、命の大切さに気づかされるでしょう。

 亡き母や、亡き父の精霊を迎えて、百味の飲食を供え、手を合わせ語らっていると、過ぎし日々のことが、まわり灯籠の絵のように、よみがえってきます。思いやりの心、やさしさの心を教えてくださった、あたたかい母のぬくもりを思い出します。きびしかったけれど、やさしい眼差しをそそいでくださった父を思い出し、善悪を見極められる人になれ、大きな心を持って世のためにはたらけと諭されたことを、思い出します。

 今、このような生活をしています、家族の動静はこうですと、お盆に帰ってきた精霊・亡き人に話します。また悩みや不安に思っていることも語ります。思いの丈を語ることで何らかの気持ちの安らぎを感じます。辛く悲しいことがあっても見守ってあげるからと、亡き人の声が聞こえてくると、悩み苦しみを乗り越えていこうという勇気と希望がわいてきます。
 精霊を送る、送り火や、京都五山の大文字の送り火を見ていると、なぜかすがすがしい気分になり、心の安らぎを感じます。精霊まつりはすばらしい日本の伝承行事です。

 この世に生死しないものはない、この道理をわきまえることが「生死を明らむ」ということであり、心の安らぎに通じます。 「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし。かるがゆえに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ」と道元禅師は教えています。 
 生きている、”今を生ききる”、ただそれだけです。お盆は、ご先祖の精霊をむかえ「生死の問題」と向き合う一時です。

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