2009年8月1日  第127話
         莫妄想    妄想することなかれ

             わが愚かさを 悲しむ人あり
             この人 すでに愚者にあらず
             自らを知らずして 賢しと称するは 愚中の愚なり  
                                         法句経


愛別離苦
(あいべつりく)・・・愛する者と別れる苦しみ
 
 「愛するものに近づくなかれ、愛するものを見ざるは苦なり、愛せざるものにも近づくなかれ、愛せざるものを見るのもまた苦なり」と法句経にあります。
 会うは別れの始めといいますが、愛するものとの別れは辛いものです。最愛の肉親や恋人との生き別れは心が痛み悲しい、まして死に別れは悲嘆に暮れる日々が長く続きます。

 愛しあっていたと思っていたが、実はそうでなかった、失恋したことによって心が晴れたと思う人もいます。恋をしていると、相手のことがよく見えていなかったのでしょう。
 また自分がきらっていた人が自分の前からいなくなった、すると、その人の存在が自分にとって大切な人であったと、別れた後で気づくこともあるでしょう。

 NHKの大河ドラマ「天地人」の主人公である直江兼続は「愛」と「義」に生きた戦国武将として語り伝えられています。戦乱の世には多くの人々を失ってしまう、直江兼続は、慈愛の心をもって民をいたわることを第一義として国を治めるべきであると説いた。愛とは、男女の恋愛の情のみならず、おおらかな心をもって、他を思いやる気持ちでしょう。

 とかく人は自分中心にものごとをとらえてしまう、自分の思い通りにならないことがあれば、たちまちそれが悩みとなる。自分勝手なものの見方でなく、ものごとを客観的に見ようと思う気持ちがあれば、愛する人との別れの苦しみを越えて、生きる喜びが見いだせるでしょう。

怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み、憎しみあう苦しみ

 人は一人では生きられないから、家庭生活や社会生活をしています。憎しみあいながら同じ屋根の下で暮らすとなれば、これは悲劇です。また地域や学校、職場で、しっくりいかない人間関係があって、お互いに気まずい思いをしながら、それでも共に生きていかねばならないのも、とてもつらいことです。

 別れたくとも別れられない、離れたくとも離れられない、ままにならないことが多いのも世の常です。顔も見たくない、まして言葉を交わすことも苦痛であり、怨み、憎しみの気持ちが増すばかり、そういう事情のもとで日暮らしをしなければならないとなると、 これはすごいストレスであり、日々が苦しみの連続です。

 最愛の家族が、いがみあい、憎しみあうようになると、家族の不和や家庭に亀裂が生じてしまいます。子や孫の行動に腹を立て、可愛さ余って憎さ百倍に豹変する親や祖父母の姿もあります。大切な人や愛した人が憎しみの人に変わることも、尊敬していた人に裏切られることもあります。怨み、憎しみのあまり、冷静な判断ができなっかったり、一線を越えてしまうと、不幸な悲劇さえまねいてしまうことがありますから、要注意です。

 つらい思いをすることは自分自身の向上につながる。今苦しい思いをしていることは、自分が磨かれ慈悲の心が育まれていく修行をさせていただいていると思えばよいのでしょう。
 苦しい目にあった人は、他人の苦しみも理解できる。心の痛みがわかる人は、何ごとにつけても広い心で接しようとします。なぜならば、怨み、憎しみあって生きるよりずっと楽しいからです。

求不得苦(ふぐとっく)・・・求めても得られない苦しみ

 今、自分にとって欲しいものがいくつかあるでしょう、そしてそれが手に入ればもう次のものが欲しくなるでしょう。欲望というのは底なしです、これを強欲という、その強欲に悩まされ苦しんでいます。

 ものの豊かさにどっぷりっと浸かりきった現代人ですが、人間は欲望を追求するかぎり不安がつきまとう。求めても求めても飽きを知らず、一方で大切なものを捨てていることさえあるようです。ついついギャンブルの深みにはまってしまったり、カード時代で借金地獄に落ちてしまうと、大切な家庭まで崩壊しかねません。

 求めても得られないと、それが苦しみになる。経済不況の昨今では働く場がないと嘆く人も多い、収入が減って欲しいものが買えない、住宅ローンを返済するお金がない、などと、さまざまな嘆きの声が聞こえてきます。また、経済的に恵まれていても、なんとなく満足できずに、なにか心寂しいものを感じている人もあるようです。

 求めることを小さくして、また足(たる)を知ることで、欲から生じる苦しみを消していける。しかし消えたと思っても、また新たな苦しみが一方で生じてくる、人生は我欲とそれから生じる苦しみの連続です。でも少欲知足の心がけひとつで、人生が楽しくなりそうです。

五盛蘊苦(ごじょううんく)・・・執着する苦しみ

 般若心経では、この世に存在しているものは、すべて五蘊(ごうん)すなわち、色・受・想・行・識が集まったもので形ずくられていると説きます。人間の肉体と精神もこの蘊からなり、利己的な執着心がはたらくと、煩悩が生じて、ことごとくが苦となる、これを盛蘊苦といいます。

 自分の心が迷っていると、なにごとにつけても、ものごとの真実に気がつかないで、ことごとくを苦ととらえてしまう。人は苦の根源となる煩悩を生み出す三毒(貪・むさぼり、瞋・いかり、癡・おろかさ)の心を持っています。利己的な妄想によって煩悩を生み出す三毒の心が活発に動き出し、ことごとくを苦ととらえてしまう。苦しみを消し去るには、煩悩の炎を消すことです。

 お寺の玄関に脚下照顧という文字が書かれているのをよく目にします。履物をそろえましょう、ということですが、自分自身を見つめ直しましょうと呼びかけています。
 肉も魚も、食べ物は腐敗します、私たちの肉体も心身の健全を保たないと腐敗してしまう。日々心新たに精進を怠らないようにしたいものです。

 四苦八苦というけれど、愛別離苦も怨憎会苦も求不得苦も、そして五盛蘊苦も苦しみではあるが、欲から生じる悩みではないでしょうか。悩みであれば解消できます、ところが生老病死は人生の深い苦しみです。
 仏教では、人の死を涅槃に入るという、涅槃とはいっさいの苦しみがなくなることです。生きているかぎり生老病死の苦から逃れられない、逃れられないならば自分勝手な妄想をせず、その苦を自然に受け入れる能力を身につけることが、人生を楽しく生きる妙術のようです。すなわち、すべての存在に執着しない生き方です。仏教は修行して自分自身を変えていく教えです。


    四苦・・・・・生・老・病・死
    八苦・・・・・生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛蘊苦

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