第114話    2008年7月1日
   
           生死を明らむ

               

         生しょうを明め死を明らむるは仏家一大事の因縁いんねんなり、
         生死しょうじの中に仏あれば生死なし
         ただ生死即ち涅槃ねはんと心得て、
         生死として厭いとうべきもなく、涅槃として欣ねごうべきもなし、
         是時このとき初めて生死を離るる分あり、
         唯一大事因縁と究盡ぐうじんすべし          「修証義」 
     
      

弱肉強食か食物連鎖か

 毎年ツバメがやってきて、神応寺の玄関の電灯の傘の上に巣をつくります。古巣は翌年また修復されて雛が毎年数羽巣立っていきます。昨年は雛がまだ小さい時に、そして今年は卵の時に蛇に食われてしまいました。ツバメはカラスと蛇に巣を襲われないように、人間の生活するところに巣をつくって子育ての安全を確保する習性がありますが、人間の生活空間はツバメにとって必ずしも安全であるとはいえないようです。
 
 蛇がツバメの巣を襲い卵や雛を食べるのは生きものの自然な生き死にの光景です。どんな生きものでも生まれてきて、死んでいきます。そして生まれてくるためには、あるいは生きていくためには他の生き物の存在が必要です。すなわち、すべての生きものは他の生きものの命によって生きていけるからです。

 蛇がツバメの巣を襲い卵や雛を食べる、これを弱肉強食ととらえるのか、食物連鎖として自然の生態とみればいいのでしょうか。弱肉強食であるという見方をすれば、生きものはすべて競争の原理によって生存しなければならないことになります、このことは人間社会も例外ではありません。食物連鎖だとすれば、生きものが生きていくうえで、蛇がツバメの卵や雛を食べるのも自然な光景です。

 蛇がツバメの卵や雛を食べる様子を人間の眼から見て、ツバメがかわいそうだという見方をしてしまいがちですが、どのような生きものでも、生きていくためには他の命を必要とします。すべての生きものは広い意味で関係をしています。自然界は弱肉強食でなく、すべての命がすべての命を互いに生かしあっている食物連鎖によって成り立っているようです。世の中に無用な命など、役に立たない命などありません、だから、ことさらに他の命を奪わない、不殺生を尊びたいものです。
 
人間はなぜ苦しむのか

 どんな生きものでも生まれて死んでいきます。そして自然界では、一つの命が生きていくために、他の命が死んでいきます。老いることも、病むことも、すなわち生老病死は自然現象です。けれども人間は死を受け入れがたいから、老とも病とも戦おうとします。

 生まれてから短い時間で死んでしまう生きものもあれば、長い年数を生きぬくものもあります。生まれてから死ぬまでの時間、つまり一生の長短は生きものによってさまざまですが、人間は短いと嘆き、長寿であると喜びます。そして人間だけが生に執着し、死を恐れます。

 植物の種たねがあってもそれだけでは発芽しません、土があって水があって太陽の光があって、初めて芽が出ます。生きものが生まれるためには必ず親が存在しています、親があって子が産まれるのです。人間も一人の男と女があるだけでは子は生まれません、その男と女が出会って精子が卵子と結びつくことによって新しい命がめばえます。新しい命は子となり、男と女は親となる。そして新しい命が芽生えた瞬間に生老病死が始まるのです。

 この生老病死を苦しみと認識するのも、生きものの中では人間だけでしょう。どうして人間は生老病死を苦しみと認識するのでしょうか。人間だけが老ねばならぬ苦しみ、病むことの苦しみを感じて、老や病と戦おうとする。長く生きたいと願い、老いや病、死を嫌うのも人間の特徴です。

人間の価値とは

 人間の子育ては他の生き物とかなりちがっているようです。親が子を育てることについて、自然の生きものの場合は、その子が自活して生きていくことができて、子孫を残せる能力があればそれでいいのです。ところが人間の場合は、親は子に「立派な人間になりなさい」とか「世の中に役立つ人になりなさい」などと言い続けて育てる。そして「つまらない人間」であるとか「役に立たない人」になってほしくないと言うでしょう。

 「世の中に役立つ人」といえば漠然とイメージが描けそうですが、「立派な人間になりなさい」と言われても、立派な人間とはどういう人なのか、その人物像が親も子もはっきりとしていないようです。けれども、学力が優れていなければということで、学力の向上のために、しっかりと勉強しなさいと親は子に言う。「世の中に役立つ人」になることを願うのならば、ことの善悪が判断できる能力が必要ですが、家庭での子育てで、やかましく教える親は少ないようです。親は子に善悪を教えることより学力の向上を求めるからです。

 「立派な人間になりなさい」と言われて、親のすすめで進学校をめざす生徒が多いようです。ところが選抜されて集まった学力上位の生徒が集まる進学校では、学力の差が生まれてしまいます。成績上位のものは有名大学をめざすが、どうしても成績が上向かない生徒は落胆して自信を失ってしまいます。人が成長していく過程において、進学の勉強ばかりで「立派な人間」とは何か、生きる意味を学ぶことがないようです。

 人間として成長する上で、子は、何を求めてなんのために学ぶのか、深く考えることもなく、わからないままに「いい子」ぶって親の安心を得るために進学用の学びをしているようです。親も学校も生きる意味とはの問いかけを子にしないから、子供は「立派な人間像」を画くことなく漠然とした進学用の勉学のみ励むことになるのです。
 「立派な人間になりなさい」と親はいうが、進学時は学力向上のみが関心事となり、生きる意味を家庭でも学校でも教えないので、子は精神的にひ弱であり、強靱な生きる力が具わっていないから、世の波にのまれてしまいがちです。

生死を明める

 この世の大原則として、一つの命が生きられるのに、他の命が必要です。わがままなことを、我をはるといいますが、蛇でもツバメでも、いずれの生きものでも、その種しゅの生き残りをかけて生きています。 人間の眼から見れば弱肉強食の我をはっているように見えますが、大自然の眼で見ると、生かしあいの自然のありさまです。

 どんな生きものでも生まれて死んでいきますが、自然界においてはその一生の長短は何の意味もなさないようです。人間だけが生に執着し、死を恐れるから、人間の認識では生老病死を苦しみととらえてしまうのです。生きているから老いるのであり、生きているから病むのです。したがって人間の認識をはずしてしまえば、生まれて死んでいくことは苦ではなく自然の姿です。

 世間の物差しで測れば、優等生となることを親は子に求めますが、優等生が実社会で「立派な人間」にあてはまるとはいえません。劣等生が実社会で「つまらない人間」であるとは限らないのと同様で、世間の物差しで測れば、世の中には劣等生があるから優等生というランクがつくのでしょう。「つまらない人間」が弱者で強者は「世の中に役立つ人」であるとは言い切れません。世の中に役に立たない生きものなどありません、したがって、世の中に役に立たない人などいないのです。

 境内の池の上の木に今年もモリアオガエルが泡の卵を産みました。この蛙は魚のいないきれいな水の池の上に空中に卵を生み、卵がかえりオタマジャクシとなって池に落ちて成長する。こういう自然の生きもののいとなみを見ていると気持ちがやすらぎます。生きものたちはただひたすらに今を生きています。
 どんな生きものでもこの世に生まれてくることはほんとうにむつかしいことですが、多くの生きものの中で人間に生まれてくることは希有なことです、人身得ること難しです。人間に生まれてきたのに死にたいと思う人生はつまらない、日々生きていることがおもしろい人生を生きるべきです。世間の物差しや人間の認識に執着しなければ、おもしろい人生が生きられそうです。

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