第108話    2008年1月1日

安心して、悩んで、日々を楽しく

世の中は、今日よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつ、明日は知られず


生きているかぎり悩は尽きない

 神応寺のホームページを開設して10年目の春を迎えました。
ホームページで、「悩みごとがあればお話しください」という悩みの相談にも応じています。これまでに仏事ごとの相談から、家庭や人間関係の悩み、心の悩み相談など数々のお悩みごとも聞かせていただきました。

 メールであったり、電話でお話したり、ご来寺になられて直接お目にかかることもあります。お悩みごとをお話しになる、それを聞かせていただく、その程度のことしかできないのですが、「話を聞いていただいてありがとう」と言ってくださるから、出来るかぎりの応対をさせていただいております。

 神応寺のホームページには毎月一つの法話を追加掲載しています。この話で108話目となりました、108は煩悩の数です、大晦日に撞かれる鐘も108声です。除夜の鐘は煩悩の数だけ撞いて煩悩を払拭して新しい歳をすがすがしい気持ちで迎えるという日本人の長年の慣習にもなっています。不浄なる心身を浄めて心あらたに新春を迎えるということです。
 ところが煩悩の数は108ぐらいではすまないでしょう。大晦日に禊ぎ払いをしても、もう年が新たまると、また新たな悩みが生まれてくるものです。

 悩みの根源は煩悩です。煩悩は尽きぬから次々と生じてくる、生きているかぎり際限なしということでしょう。煩悩が尽きる時とはいかなる時かといえば、それは命つきる時です。
 美味しいものをもっと食べたいという欲望がある、美味しいものを食べている一瞬は我を忘れて、舌鼓を打っているが、食べ終わるや、また別の心配ごとが頭をよぎる。そういうあさましい日々を私達は生きているのです。

悩み苦しみの根源は煩悩です

 昨年お亡くなりになった河合隼雄さんによると、最近の若い人は悩み方が昔とちがってきた。すなわち、何であなたは悩むのですかと聞けば、はっきりと悩みの根源を話すのが最近の若者の特徴だそうです。それは両親がどうの友達がどうの、それで私がこうなってしまったなどと、悩みの原因を他に求めようとする、こういう社会だからという表現までされるのです。

 でも一時代前の若者に悩みの原因をたずねてもすぐに答えが返ってこず、命とは何か、生きるとは、人生とは、と、自分に問いかけて、自分自身で悶々とした日々をおくるという若者の姿がみられました。深い悩みに沈んでしまうけれど、若者はやがてその悩みから自力で立ち上がり、歩き始めたものです。ひたすらに自己の内面に問いかけ、いかに生きるべきかを悩んだのです。河合隼雄さんはこのような話をされていました。

 般若心経に「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」とありますが、眼耳鼻舌身意の感覚器官を六根という、その六根で色声香味触法という六境すなわち六種の認識作用が生じるとされています。けれども自分勝手な六通りの受けとめ方をしてしまうから、それで自分自身が悩み苦しむことになるのです。
 六根×六境×過去現在未来の三倍で掛け合わすと108となる、これを煩悩の数としてきました。悩み苦しみの根源は煩悩にあります。煩という字は左が火、右が頭で、頭が燃えさかって正常な判断ができなくて、自ら悩み苦しむのです。

 命とは何か、生きるとは、人生とは、と、ひたすらに自己の内面に問いかけ、いかに生きるべきかに悩み、その悩みから自力で立ち上がり、歩き始めた経験があればよろしいが、悩みの原因を他に求めがちな現代人には、ものごとの認識においても、自分にとって都合のよい、自分勝手な受けとめ方しかしない人が多いようです。ものごとの本質を理解しょうとしないから、現実をありのままの実体(真実)として認識できないで、自ら悩み苦しんでしまうのです。

煩悩はどんどん湧いてくるものです

 人には貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒の心がある、この三毒の心がはたらいて煩悩が生じます。煩悩はどんどん湧いてくるものですから、尽きないのです。人はこの三毒の心のはたらきを抑えて、理想的人間像である仏に近づこうとするのですが、どうしても三毒の心を消滅できないのです。この三毒の心のおもむくままに勝手気ままな自分本位の生き方をして自分で悩み苦しんでいるのが普通の人、すなわち凡夫の姿です。

 この煩悩のはたらきによって悩み苦しみが生じます。これがストレスとなり心身が病み、身体の不調につながるのです。現代人は悩み苦しみの原因を他に求めたがるから、他が変わらないかぎり自分の悩みも解消されないということになってしまいます。まして社会がどうだからと、世の中のせいにしてしまうと、世の中が変わらないと自分の悩みも解消されないということになるので、悩みが深刻でストレスとして蓄積されていくのです。

 これにくらべて、自己の内面に悩み苦しみの根源を求めれば、それは自己の問題です。生きてるから悩むのであって、安心して悩めばいいのでしょう。悩みが尽きぬから生きる意欲や希望も持てるのでしょう。しかし過度の悩みは禁物です、ストレスで自滅してしまうからです。悩みもほどほどがいいのでしょう。
 いい加減に生きるとはチャランポランではないけれど、風呂の湯で喩えると熱からずぬるからず、ちょうど良いぐあいというところでしょうか。しかし、このいい加減に生きるというのが、なかなかむつかしいものです。そこで生き方の三ヶ条なるものをご提案します。

その一 肩肘張らない いつも背筋伸ばして姿勢正しく、肩肘張らずに、ゆっくりと息を吐く呼吸法で、心おだやかに生きましょう。ロダン作の「考える人」の銅像のスタイルはいけません。
その二 欲張らない 少欲知足、欲張らないで生きましょう。多欲の人は利を求めることが多いから、おのずから苦悩もまた多い、 少欲の人は求めることもなく、欲もないからわずらうこともない。
その三 頑張らない 快眠・快食・快便で、心身健やかに生きましょう。健康は習慣です、朝はきちんと起きて三食しっかり食事をとり、夜は早く寝る。ちょっと辛くても仕事や学校に毎日出かける、規則正しい生活を心がけることでしょう。
 いつも姿勢正しく、ゆっくりと吐く呼吸法を常に心がけ、欲ばらず、笑顔を絶やさず、自然にふれ、日の光をあび、汗もかいて気分をおだやかにして日々過ごすことです。


こだわらない、欲ばらない、がんばらない

 ストレス社会です、うつ病に悩む人が増えています。過度のストレスによって自律神経のバランスが崩れてしまいます。 自分という生命体に素直な生き方をすべきところ、私たちは自我の欲望のおもむくままに利己的な生き方をしているから、自分自身で悩み苦しんでしまう。
 悩み苦しみが解消されずに重なり蓄積していくと心身の不調をきたします。ストレスの多い社会に生きています、ストレス解消を日々心がけて、何がなんでも我慢しないことです、そして一人で抱え込まないことです。

 時には日常の生活を省みましょう。普段の生活に原因があれば、その生活を根本から変えることです。仕事に原因があれば仕事の仕方を変えてみる、思いきって職場を変えることも必要です。これまでに過ごしてきた生き方を変えて、別のレールに乗り換えるのも一つの生き方です。
 これまでとちがった考え方、生き方をすれば楽に生きられるかもしれません。斉藤茂太さんの言葉を借りれば、「過去は安い本と同じ、読んだら捨てればいい」でしょう。失敗を恐れないことです、「何でもないところで転んだ人は、難所では転ばなくなるものさ」、「人生に失敗がないと、人生を失敗する」です。

 道元禅師は「菩提心」(理想的人間像である仏になろうとする心)を発すことを説かれました。瑩山禅師は「慈悲心」(仏の生き方を実践する心)を説かれました。ご家庭にお仏壇があれば、真っ直ぐに線香一本を立てて、その前に坐って手を合わせ祈ることによって、お仏壇がなければ暫し静かに端坐することによって、自らも仏(仏性のそなわったありのままの自分)になろうとする心がうまれます。よりよき生き方を実践しょうとする心も育まれるでしょう。

 朝一番に姿勢正して、息整えて、静かに手を合わせ、ありがとうございますと感謝して一日の始まりとしたいものです。
 私たちは今ここにご先祖さまから命をいただいて生きています。この命ある喜びに目覚め、さまざまな命にささえられ、生かされている共生きを喜び、二度とない人生ですから、よりよく生きようと年頭に誓いたいものです。

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