「鐘の音」   和尚の一口話                 1999年4月1日
  
       第三話    今を生きる  
   
   
人が確かに生きていると言い切れるのは、一呼吸の間です



 年回法事によせてもらうと、「生きている間に、ああもしてあげてたら、こうもしてあげてたら、よかったのに」と、こんな言葉をよく耳にします。そのうちそのうちと思っているうちに、もう親はいない。「孝行のしたい時分に親はなし」といいますが、なにかにつけて私たちは、そのうちそのうちという気持ちで、日送りをしていることが多いのではないでしょうか。

 俗に、人生には三つの坂があると言います、上り坂に下り坂、そしてもう一つが「まさか」と言う坂、いつ何時転げ落ちるかわかりません。
 「板子一枚、下は地獄」とは、船乗りは、海難事故の死と隣り合わせ、危険極まりないと言うことですが、地上でも車を運転中に、いつ事故をおこし、命を落とすかもわかりません。

 リアリズム写真家と呼ばれた 「土門 拳」さんは、平成2年に80歳の生涯を閉じられたが、「人間は死ぬ、どうじたばたしても、所詮いつかは絶対に死ぬ、ところが生きている人間は、自分が死ぬものだということを、普段全然忘れて暮らしている」この辞世の言葉を、数々の写真とともに残されたそうです。


 「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
 とは、親鸞上人のお歌ともいわれていますが、
道元禅師も
「世の中は、なににたとえん水鳥の、嘴ふる露に宿る月かげ」
と、人の命を花や露にたとえて、繰り返し繰り返し、そのはかないことを説いておられます。

 ある時、お釈迦様が弟子に尋ねられた、「人が確かに生きていると言い切れるのは、どれほどの時間を言うのか」と、弟子が答えた「それは一呼吸の間です」と、お釈迦様は「そうだ、今を生きることです」と言われたそうです。
一呼吸の間にも、私たちの身体をつくっている細胞は生き死にしています。
確信をもって生きていると言えるのは、今だけ、一呼吸の間だけだから、そのうちそのうちと言ってはおれません。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」

 この世の、何もかもが、一時たりとも同じ姿を止めていません。無常とは世間一切のもの、万象ことごとく生滅してとどまることなく移り変わっていく。
生きているのは今です
「今」に生きる、「今」をおいて他に生きる時ぞなし。
 「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」という諺がありますが、よりよく生きようと思うならば、今すぐ、今から生き方を変えようと心に決めること、そして何が正しいのかを見抜く能力を養い、
今を、生きることです。
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