第105話  2007年10月1日

                懐古
         

           むさぼり深き人びとの中に むさぼり心なく
           げにこころたのしく 住まんかな
           むさぼりなやむ 人びとの中に
           つゆむさぼりなく 住まんかな 
                       お釈迦さまの言葉 法句経199
 

叱られて、褒められて

 先日、丹波篠山の寺でお婆さんの三十三回忌の法要がありました、愚僧が小学校の一、二年生の時にあずけられていた寺です。そのお婆さんの孫の三人もがお坊さんになり、孫娘の婿も出家してお坊さんになりましたから孫の僧侶が四人です。そしてさらに三人の曾孫が今、福井の永平寺で修行中です、それぞれすばらしい禅僧です。
 その四人の孫の僧侶が集まってお婆さんの三十三回忌の法事をされました、愚僧はお婆さんからすると甥の子にあたりますが、その法事の導師をつとめさせていただきました。お婆さんのことがいろいろと思い出されます。それは50年以上も前のことですが、今、その頃のことが走馬燈のごとくによみがえってきました。

 愚僧は当時小学校の一年生で、親のもとを離れて親戚でもある禅寺にあずけられました。寂しさと不安でよく寝小便をしてしまいました。朝起きると冷たくて大きな地図が画かれていました。でも愚僧を育ててくださったお婆さんに叱られたことはありませんでした。
 洗濯機のない時代でしたから敷布を手洗いして、布団を干してくれました。さすがに雨降りが続くと乾かないから、困ったものだと言って、軒に干してくださいました。叱られないからよけいに恥ずかしい思いがしたものでした。

 50年前、結核という病気は不治の病であり、感染する恐ろしい病気でした。結核患者は結核療養所に隔離入院させられました。結核が理由の離婚もよくあったようです、結核が夫婦の絆を切り裂き、深刻な事態をもたらしました。愚僧の父親が結核になり、それがもとで両親は離婚しました。病弱な姉は母親と離れなかったけれど、愚僧と妹は離ればなれになって別々の親戚にあずけられたのです。
 その頃、アメリカで特効薬が開発されて、父も療養して元気を回復しました、そしてしだいに結核患者も減っていきました。

 愚僧は丹波篠山の寺にあずけられました。親と離れて生活する子供の寂しさを思い、また愛情に飢えていることを察知して、お婆さんなりの愛情をそそいでくださっていたと思います。寝小便をしても叱られたことはありませんでしたが、数々の悪さかげんに、時々は叱られたけれど、褒められることもありました。
 小さな子供は叱ってばかりいても、よい子育てになりません、褒めてそして、叱る、そういうのが婆さんの慈悲の心での子育てだったようです。

もったいない

 お寺では仏さまに毎日ご飯をお供えします、御仏飯(おぶっぱん)です。毎朝炊きたてのご飯をお供えします。ご本尊さまから、歴住さま、諸仏諸菩薩さまと数の多いお供えです。お昼には下げて、お櫃(ひつ)のご飯に混ぜていただきます。電子ジャーのない時代ですから、お櫃のご飯も冷やご飯でした。

 お供えの仏器についたご飯粒で干からびたものはカチカチになっていましたから、お婆さんは一粒ずつとって、洗って毎日天日に干していました。
 何日かたってたまるとそれを煎って、醤油で味付けして、米粒のあられをつくってくれました。それがとても美味しいおやつでした。手間のかかることですから、一粒一粒にお婆さんの気持ちがこめられていたのでしょう。

 ケニアのノーベル平和賞を受けられた環境保護活動家のワンガリ・マータイさんが「もったいない」という言葉を世界にひろめたので「もったいない」という言葉が世界中で知られるようになりました。
 「もったいない」とは「勿体無い」、すなわち「物体(もったい)を否定する言葉で、物の本来あるべき姿がなくなっていくことを惜しみ嘆く気持ちをあらわす意味だそうです。「物の価値を十分に生かしきれていない、ムダになっている」という意味にも使われます。
 「もったいない」という言葉が日本では死語になりつつありますが、一方では世界中に通じる言葉に流布しているようです。

 米粒の一粒も洗い流すと「もったいない」とお婆さんは言いました。一粒でも食べ残したりこぼしたりすると、「もったいない」、お天道様(おてんとさま)に叱られますと注意されたものです。その頃のお米の一粒は光り輝いていたように思います。
 この時に一粒のお米の大切さを教えられたことが、身にしみこんでいますから、今でも一粒でも食べ残すことはしません、ムダにできません。時々、箸を置いて、その頃のひもじかった時代をふと思い出すことがあります。



 丹波篠山は海から遠いところです、今でこそわずかな時間で物流しますが、昭和30年頃はまだまだ物資の輸送に時間がかかりました。大阪湾や明石方面から丹波篠山は遠くて、鰯も篠山に到着する頃には鮮度も落ちてしまいました。お婆さんはよく鰯を梅干しと煮ていました。

 篠山にあずけられるまでは愚僧は明石にいました。それで子供ながらに取れたての明石の鰯と味がちがっていたのを感じていました。鰯を煮るときは梅干しを入れて煮る調理法もありますが、生姜を入れます。家内の里も大阪湾に近いところですから「手てかむ鰯」という声を発して売りにきたそうです。「手てかむ鰯」は生姜を入れて煮ると、そりくりかえるのです、それだけ鮮度がよいという証拠です。

 食材は鮮度が一番ですが、鮮度がおちたものでも調理の仕方によって、美味しくいただけます。鰯を煮ることは、あまり手の込んだ料理ではありませんが、お婆さんの工夫で美味しくいただけました。煮た鰯を食する時、梅干しで煮たお婆さんの鰯を思い出します。
 現代では調理された食品が店頭に溢れています。最近のお母さんは鰯の腸が臭いといって嫌うそうですが、栄養のあるもので、愛情のこもった手作りの料理であれば子供は健康に育つでしょう。

 活きのいい鰯は煮るとほとんど臭みもなく味もよく、そりくりかえっています。篠山のお婆さんは鰯を酸っぱさのなくなった古い梅干しで煮ていました。鮮度の落ちた鰯の臭みを感じないように、かといって鰯の味を損なわないようにうまく煮ていたのです。
 お寺では魚はあまり食べなかった時代ですが、子供の生育に滋養のある鰯をよく食べさせてくださったのは、お婆さんの思いやりであったのでしょう。そしてお魚の命をいただきますという、食べ物の本来の意味を教えてくださったのでしょう。

真っ白な卵

 丹波篠山は田舎ですからほとんどの家が農家で、鶏を数羽飼っていました。小学校の給食は農村地域にはまだおこなわれていませんでしたので、お弁当を持って行きました。農家の友達のお弁当には黄色くて美味しそうな卵焼きが毎日入っていましたのに、自分の弁当には入っていませんでした。

 お寺に隣接してお宮さん(神社)があります。ある時その社に白く光る何かがあり、よく見るとそれは真っ白な卵でした。愚僧はそれをナイショでいただき、お婆さんに渡しました。お婆さんは、お宮さんのお下がりだから、感謝していただくんだよと、お弁当のおかずにしてくれました。友達みんなと同じ卵焼きの入ったお弁当を食べられたことが、とてもうれしかったこととして記憶に残っています。

 当時から50年の歳月が経ちますが、卵一個の値段はその頃と今も変わっていないかもしれません。何万羽も飼う養鶏業が一般的になり卵の値段を変えていないからでしょう。当時、卵はとても高価な食材でした。むろん鶏肉も高価なものですから、特別な時にしか食べられませんでした。
 何万羽も飼う養鶏場で鳥インフルエンザの感染拡大防止のために、何万個もの卵が捨てられ、何万羽もの鶏が処分されたのです。

 お宮さんには真っ白な卵が一つ、よく供えてありました。たぶん近所の農家の人が供物として供えて、暗黙の了解のもとに、お寺の小僧さんの卵焼きにしてあげようと、情けをかけてくださったのでしょう。お婆さんもそれをよく知った上でお弁当に入れてくれたのだと思います。ほのぼのとしたあたたかい利他の心そういう他人の情けが社会に満ちあふれていた時代は過去になってしまったのでしょうか。

 お婆さんの三十三回忌の法要の三日後に愚僧は還暦をむかえました。50年前を懐古すると、現代人が忘れかけている、人のあるべき生き方のあれこれをあらためて学ばせていただきます、それはきっと、お婆さんのお導きでしょう。

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