第94話   2006年11月1日
 
           
五観の偈

             《 五観の偈 》
        多くの人の苦労を思い感謝していただきます
        一つには 功の多少を計り彼の来処を量る
        自分の行いを反省し静かにいただきます
        二つには 己が徳行の全缺をはかって供に応ず
        好き嫌いをせず欲張らず味わっていただきます
        三には 心を防ぎ過を離るることは、貧等を宗とす
        健康な身体と心を保つため良薬としていただきます
        四つには 正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
        円満な人格完成のため合掌していただきます
        五には 成道の為の故に今この食を受く
         
        

喉元過ぎれば熱さ忘れる

 日本人の食が変わりました、米や野菜や魚の料理が多かったけれど、パンや肉を近年よく食べるようになりました。そしてスーパーやデパートで調理されたものを買い求めるから家庭で調理する割合も減りました。また外食産業が増えてきたので自宅外で食事することも多くなりました。

 グルメすなわち美食家とか食通だと自負する人も多いようですが、飽食すなわち腹一杯に食べる人、偏食すなわちきらいな食品を食べない人など、さまざまな人の姿が見受けられます。食べ過ぎたり、栄養が偏よると病気になります、それで食生活の見直も必要です。

 人はごちそうを目で見て味わい、鼻で味わい、舌で味わう、そしてごくんとのみ込み、喉元過ぎればあとは知らぬ顔をしています。ほんとうは体にとって大事なのはその先です、胃袋でこなして腸で養分を吸収してはじめて血となり肉となり、薬となりて活力を生むのです。喉元から上で欲望を満たしているところに人間のあさましさがあるようです、喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこれを言うのでしょう。

「食べる」と言わずに「いただきます」と言いたい

 日本人は長寿になりました、八十歳を生きるとすれば、人間一生、一日三度の食事で9万食、食料100トン食べて 水は50メータープール4杯半飲むことになるそうです。自分の力で生きているようですが、他に支えられているからこそ、これだけ多くの食べ物を食せるのでしょう。

 食事をするという言葉一つにも、人によってちがいがあるようです。平気で食べ物を捨てる人、むさぼり食う肥満の人は「食べる」と言うでしょう。「いただきます」と言う人は、飽食や偏食をつつしみ、食べ物を大切に味わい、もったいないといって、食べ物も捨てません。

 私たちは生きるために「もの」を食べます、「もの」は生き物の命です、その「もの」の命を食べて自分という命を生かしてもらっている、だから「食べる」と言わずに、「いただきます」と言いたい。
 ところが、自分で金を払って食べ物を買い求めて食べているのだから、他に感謝などしなくてもよい、と思ってる人もいます。学校の給食代を負担しているから、子供に手を合わせて、「いただきます」などと強制しないでください、という親もいるそうです。また、食後に手を合わせて「ごちそうさまでした」と言わずに「いただきました」と言わせている学校もあるそうです。

凡眼をもって見ず、凡情をもって思わず、眼晴の如くとりあつかう

 禅寺では修行僧の食事をつくる役職を典座(てんぞ)といいます。典座職の心得の一つとして、食事を調理しととのえるときに、その材料について世間並みの考え(凡眼)で見てはならない、人をみるに世間並みの感情(凡情)をもって思ってはならない、材料や器物はすべて目の玉(眼晴)のようにとても大切にとりあつかい、精魂をこめて典座のつとめに努力せよと、道元禅師は教えています。

 すなわち、たとえ粗末な菜っ葉を用いてお汁やおかずをつくるとしても、いいかげんに扱う心をもってはいけない、また上等な材料だからと浮かれたりしてはならない。美味しい料理をつくろうと、まごころと清らかな心で調理したいものです。

 食材の善し悪しに引きずられたり、食する相手によって態度や言葉を変えるべきではない、生き生きとした眼を見開いて一枚の菜っ葉を扱う、菜っ葉一枚にも仏の光明が輝やいています。

全身全霊でいただきます

 禅寺の修行僧が食するときの心得として全身全霊でいただくことを道元禅師は教えています。食べることの原点は生命の維持にあります、毎日を生きぬくために、人間として向上していくために食します。しかし現代人は生理的食欲をこえた過食や偏食により健康を害してしまう人が多いのです。
 朝食を食べない子供は発育に、そして大人は健康維持に影響します、過食、偏食も同様です、食の乱れは心の乱れにつながります、「いただきます」を忘れたところから、自分自身の心が病みはじめます、醜いいじめの心、悪の心へと変貌していきます。 

 たまには一粒の米を手のひらにのせてながめてみましょう、何かが見えてくるでしょう。お米は額に汗した人と自然が生み出した一粒の輝く命です、一粒の米は人によっては大きく見えたり、見えなかったりする、飢餓に苦しむ人々にはとても大きく見えるでしょう。
 日本中の家庭の台所やレストランから毎日大量の食物が捨てられています、地球上には多くの人々が飢餓に苦しんでいます、食糧資源の乱獲に対する批判もあります。

 食事を楽しく、そして美味しくいただくために、だんらんの場である家庭の食卓で「食とは命をいただくこと」だということを、そして「すべからく足を知る」という感謝の気持ちを、食前に唱える五観の偈の教えのもとに、常に心得ておきたいものです。

 私たちは生きるために「もの」を食べる、「もの」はすべて仏の命です、仏の命である「もの」を食べて自分という仏の命を生かせてもらってる、だから食べ物を目八分にささげて、「いただきます」と言って全身全霊でいただき、手を合わせて、「ごちそうさま」と言って感謝の気持ちを表したいものです。
 こんな些細な日常ごとが、あなたの日々の生活を心豊かなものに変えていくことでしょう、五観の偈は人の生き方の基本を教えています。
 
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