第88話   2006年5月1日

          ?啄同時 そったくどうじ

         僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
         清云く、還って活くることを得るや
         僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
         清云く、また是れ草裏の漢

                          碧巌録(へきがんろく)

       


」と「啄」

 禅の言葉に「啐啄同時」というのがあります、5月は野鳥にとっては子育ての時期です、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

 両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時でなくてはなりません。

鏡清啐啄

 中国に鏡清禅師というかたがおられた、
 一人の僧が禅師に「学人啐す、請う師啄せよ」といった。
(学僧)「私は十分に悟りの機が熟しております、私は今まさに自分の殻を破って悟
 ろうとしています、どうぞ先生、外からつついてください」といったのです。
(鏡清禅師)「つついてやってもいいが、本当のおまえが生まれてくるのか」と。
(学僧)「私は、もし悟れなかったら世間に笑われます」といったので、
(鏡清禅師)「この煩悩まみれのたわけものめが」と、一喝された。
 その後この学僧は、どうなったのか、わかっていません。

 鏡清禅師と学僧の問答として「鏡清啐啄機」の公案が碧巌録(へきがんろく)にあり
 ます。鏡清禅師は啐啄の機をもって修行者を指導されたと伝えられています。

師匠と弟子、親と子

 このように「啐啄同時」は、弟子をヒナ鳥に、師匠を母鳥にたとえ、師匠と弟子が意気相合して、間に髪を容れる瞬間もないことを示す言葉であります。禅門では修行者と師僧とが、互いに意気が合って一体不離になっていることをいいます。すなわち弟子の修行が円熟しておることに気づいて、師僧が悟りの機会をあたえてあげる、師僧の励ましに応じる境地に弟子が至っていなければだめなのです。

 鏡清禅師は「啐啄の機」ということを常に説いておられたそうです、師匠の悟らせようとする働きと、弟子の悟ろうとする働きが一致した時が大悟徹底であるというものです。
 親子であっても、卵の殻を内側から子も無心につつき、母も外側から無心でつつく、互いに意識せず、「啐啄同時」というのは自然にそうなっているものです。相談しながら同時につっついたりするものではありません、啐啄同時を誤解してはならないことを鏡清禅師は教えられたのです。

啐啄同時

 野鳥は巣立ちの時にも「啐啄同時」しているようです、自分で餌をとり自活していく能力が雛に具わったとみるや、親鳥は雛に巣立ちを促します、雛もこれに応じて巣から出ます、自立の瞬間です。しかし人間は子離れしない親、親離れしない子がいかに多いことでしょうか、「啐啄同時」の機会を逸してるというべきでしょうか。

 親の指導と子供の自発とが一致した時、はじめて効果をあげるのではないでしょうか。ほんのちょっと待っていれば子供がひとりでに覚えたり行動したりするのに、今教えこもうとしてムダ骨を折ったり、教えなくてはならない大事な時期をはずして手遅れになったりしていることが多いでしょう。

 子供は知らないと思っても、親の身勝手はちゃんと見抜いていることもあります、またさみしい子供の心は、親の愛情をもとめています。教えをうける側と教えをあたえる側とが一致した時、真の教育がおこなわれる、子供の教育は、その心身の成長の段階に応じて適宜適切におこなわれなくてはなりませんが、とかくズレてしまいがちです。

 人間関係においても、相互の啐啄が時間的に間髪入れずに意気投合しておるようであればうまくいくでしょう。機縁とは、あることが起こるようになるきっかけをいうのですが、おのずとおとずれてくるものであって、つくろうとしてもつくれるものでもありません、機縁とは熟するもので、この機縁が熟した時こそ、啐の時であり、啄の時です。
 鏡清禅師は啐啄の機をもって修行者を指導されたと伝えられていますが、親と子も、そして世の中の人間関係においても、人と人との関係が疎外されている現代社会において、この「啐啄同時」は、とても意味深い言葉です。

     
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