第86話    2006年3月1日

     慈悲心      
 
  立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、眠らないでいる限りは、
  この慈しみのこころづかいをしっかりも持(たも)て。この世ではこの状態を
  崇高な境地と呼ぶ。「スッタニパータ」
     

命が尊ばれなくなってきた社会は、不幸な世の中です

 安らぎと団欒の場であるはずのわが家が、不安におののく場になってしまった、建築構造の偽りの設計がなされた建物であると判明したのです、安住の我が家を得たのにそれが耐震強度偽装設計の建物であったのです。

 この建築設計のごまかし事件に関わった人達と同様に、株の不正操作を繰り返すことによって企業活動の拡大をはかってきたIT企業が今、法的に問われています。企業活動に関わっている人々、すなわち経営者、関連して利益を共有している人々、その株に大口投資する人々、いずれもが、世の中はお金にしか価値を認めないということで共通しているようです、そういう意識の人々が多くなってきたのでしょうか。

 学びの場でも不幸な事件が後を絶ちません、信頼されるべき塾の先生に生徒が殺害されるという事件の裁判が始まった頃、滋賀県長浜市では登園中の幼稚園児2人が刺殺された、容疑者は別の園児の母親だった、幼い命が突然奪われる惨事が多発しています。身近な人さえも信じられなくなると、子どもの安全に地域社会が取り組むすべもない、子供達にはのびのびと遊べる場もなくなってしまった。

命の輝きが見えていない

 東京都江東区の小学校で飼われていたウサギがいなくなったので、近所に張り紙をして捜していました、そのウサギは「ゆきのすけ」と名付けられて、生徒が4年前から世話をしていたそうです。
 そのウサギをサッカーボール代わりにけって殺したとして、警視庁少年事件課は、いずれも近くに住む18歳の無職少年3人を動物愛護法違反などの容疑で逮捕しました。調べによると、3人は小学校に侵入し、ウサギ小屋からオスのウサギ1羽を盗んで、近くの公園で約1時間にわたってけるなどの虐待をして死なせた。「おもしろくてエスカレートしてしまった。死がいは近くの運河に捨てた」と供述した、3人のうち2人は同小の卒業生だったそうです。

 また、埼玉県八潮市でも小学校の生徒が飼育していたウサギが殺された、飼っていたウサギ7羽のうち6羽が死んでいた。何者かがウサギ小屋に進入して竹ぼうきの柄で殴り殺したとみられる、犯人はわからないようです。
 暖かい体温の伝わる生き物の命の輝きを、ウサギの飼育をとおして学ぶために飼われていたのです、いずれの学校でも可愛がっていた児童の心は深く傷つきました。


慈しみの心があれば共に生きていける


殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる
可愛がられ抱きしめられた子どもは世界中の愛情を感じとることをおぼえる
これは教育者ドロシー ・ロー・ノルト博士の言葉ですが、
19行の詩「子は親の鏡」はこういう。

      子は親の鏡

     けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
     とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
     不安な気持ちで育てると、子どもは不安になる
     「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
     子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
     親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
     叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
     励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
     広い心で接すれば、キレる子にはならない
     誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
     愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
     認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
     見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
     分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
     親が正直であれば、子どもは正直であることの大切さを知る
     子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
     やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
     守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
     和気あいあいとした家庭で育てば、
     子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる
         
 「子は親の鏡」という言葉はどこかなつかしい響きがある、昔から言い古されてきた言葉であるのに、今の日本では死語になりつつあります。さまざまな事件を引き起こした人々の幼き頃の姿をたどれば、何処かにこの19行の詩のいずれかに引っかかりがあるでしょう。


仏心とは大慈悲心これなり


 ドロシー ・ロー・ノルト博士の子供を育てることの教えは親の子に対する慈悲心そのものです。慈悲とは仏がすべての衆生(世の中のいっさいの生き物)に対して苦から解脱させようとする憐れみの心です。 
 この「慈」と「悲」に他者の幸福を喜ぶ「喜」と心の平静である平等心「捨」とを合わせて、はかりしれない利他の心、慈、悲、喜、捨の四つを四無量心といいます。これらの心を無量におこして、無量の人々を覚りに導くこと、慈とは生けるものに楽を与えること、悲とは苦を抜くこと、喜とは他者の楽をねたまないこと、捨とは好き嫌いによって差別しないことです。

 自然界はこの四無量心そのものです、これから百花爛漫の時節になります、どんな花でも自己の力だけで花を咲かせることはできません、万物が利他の働きによって一つの花を咲かせるのです。梅や櫻の花は自身の力で咲いているのではなくて、万物が総掛かりで咲かせてる、一木も一草も生きているものみな同じです、人間も一人が生きていくためには万人の支えが必要、万物の命の支えがあって一人の人間の生がある、これが自然界の法則というものです。

 個人の人権は尊重されなければいけません、それは命の尊厳であり、他がその尊厳を抹殺することはできません、同じことは自分が他に対してもそうです、自分の権利を主張してもいいけれども、世の中は生かしあいの世界ですから、他があって自分が生きていけるのです。世の中は金次第でどうにでもなる、お金儲けに手段は選ばず、自己の努力でつかみとるもの、と考えている人があれば、お金で自分が沈没するでしょう。

 「悲しみの心を私がお受けします、喜びと楽しみをあなたにさしあげます」この利他の心、慈悲心によって衆生は無量の福徳を得る、彼岸とはさとりの境地に至ることですが、他を彼岸に渡すことによって自もさとりの岸に至ることができる、彼岸は菩薩行の実践週間です。

 
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