2003年6月1日  
   第53話   草木のこころ

   まこと 色うるわしく咲ける花に 香りの伴うごとく 
   善く説かれたることばは
   これを身に行うとき はじめて その果実はあらん  (法句経)


華は愛惜にちり、艸は棄嫌におうるのみなり

 梅雨はうっとおしい季節だと思う人もあるでしょうが、生き物にとっては恵みの雨、とりわけ草木にとっては成長する雨の季節です。
 花は惜しまれて散っていく、草は嫌がられても生えてくる、たしかに美しい花はいつまでも咲き続けて欲しいと願い、畑や庭の草は除草してもすぐに生えてくるから、困ったものだと嫌がられます。けれどもこれらは人間の思いであって、草木は子孫繁栄のために花を咲かせ、草は芽を出すのです。

 風媒花に人間は関心を示さないばかりか、花粉症の心配をする、けれども虫媒花は美しく咲く花が多いので人間の目にとまる、花を咲かせているのは昆虫や動物による受粉を期待しているからです。

 植物学者であられた昭和天皇が「世に雑草という植物はない」といわれたそうです、草がはびこるのを人間が嫌うというのは、人間の身勝手な解釈です。人間の身勝手な目は、花の姿や咲き方で、ランクをつけて評価します、また人間の身勝手な思いは、山の木や、さまざまな植物を、経済的に評価します。

 草木が芽を出す、花を咲かせる、実をつける、いずれも子孫を残さんがためです、草木が生きているということは、種あるいは子孫を絶やさないという、この一言につきるでしょう。
 草木は生(は)えるという、動物は生(う)まれるという、草木は死ぬとは言わずに枯れるという、動物は枯れると言わずに死ぬという、いずれも生命の生滅ということにおいては同じです。


草木も、それぞれ生き残りをかけ、生きている

 動物と人間は感情の交わりがあるのに、植物とはおよそ感情のやりとりなどない、けれども自分で育てている花や野菜には愛情をこめて語りかける人もいるでしょう、美しい花を咲かせよ、よい実をつけてくれよと語りかけ、心をこめて手塩にかければ、草木も応じてくれそうに思えます。

 太古から草木と微生物が土をつくり、草木が生えて、そこに動物が生息できる、動物と植物とはいずれも深く結びついた生態系において、また関係し合う生き物たちとして進化してきました。
 生命は遺伝子によって命に連続性があたえられ、進化によって多種多様な生物が存在しています。竹は薮全体が一個体のクローン繁殖(無性繁殖)である、有性生殖、無性生殖のもの、雄雌異株のもの、挿し木で葉や茎で根や芽がでるもの、環境適合において、高地蔓植物、寄生・着生・腐生、昆虫を利用するものなど、植物はさまざまに進化してきました。

 植物の突然変異や自然交配による品種の変化という何万年もかかって進化してきた、スローな時の流れを無視した人間のご都合主義によって、バイオ技術や遺伝子操作において、植物の固有の種の存在までもが否定されるようになってきました。そして近頃の農業はあたかも人間のコスト計算の経済効率の上にのみおこなわれているようです。けれども、大気や水の浄化という生き物の根本にかかわることや、生き物の生態系にあたえるはたらきなど、草木からいただく恩恵には、はかりしれないものがあります。

 草木はすべて子孫繁栄のためにさまざまな進化をとげてきました、植物は動物とちがって、自ら動かないように見えるが、地下茎、種子、その他さまざまなかたちで子孫を新天地に生息させています。静かに生えているかのように見える植物の間においては、それぞれ生き残りをかけた過酷な生存競争が展開されています。草木とても生存競争において、それぞれさまざまな緊張があるのでしょう、都市の街路樹や人間のご都合で植えられる多くの植物は、ストレスのような緊張が日常的にあるでしょう。

人間の目で見ると、自然界の生き物が弱肉強食に見える

 自然界には弱肉強食などありません、人間の目がそういう見方をしているだけで、食物連鎖で生態系が形づくられています。草木にしても動物にしても、生き物はみな裸で自然界に生きています。温泉の大浴場では人は裸で入浴します、お湯の中では上下もなく、強い弱いもなく、金持ちも貧乏の区別もなく、みんな同じ裸一貫です。人間も本来の姿である裸で生活をしていると、いじめなどしないでしょう。なぜならば人間以外の地球上の生き物はみな裸で自然界に生きて、いじめしません、人間だけがつまらない生き方をしているようです。

 自分という人間の存在すら、わからなくなってしまうことがあります。 「何かにあせり、何かにおびえているが、どうしたらよいのかわからない」、というご自分の思いを伝えてくる人があります。不況と変貌著しい時代ですから、大なり小なり、気持ちはみんな同じかもしれません。「社会のスピードの速さにもついていけなくて」という人もいます、技術革新、社会の仕組み、人々の価値観いずれも変化の速度が早いからです。

 「どうして経済は成長し続けなければいけないのか」、との問いに対して正確な答えがあるのでしょうか、成長、発展、進歩、について、疑問をもつことをはばかる風潮さえあるから、答えをだすことすらタブーなのでしょうか。 ストレスの解消策というか、癒しという言葉が流行語のように用いられる、せかされて、あせらされて、息が詰まりそう、いそがしすぎて、さまざまな重圧にたえかねて、なぜ、という問いかけの余裕すら許されない時代なのでしょうか、それでスローライフという生き方を考える人もいます。

 大人たちに問いかけてみましょう、「子供たちは、成績もよく、よい子でがんばらなければほんとうにいけないのでしょうか」、「・・・でなければならない」ということが子供たちにとって重荷に感じてくる、義務感が精神的圧迫となり葛藤が生じる、心身の疲れにつながり、いじめ、ひきこもり、登校拒否になってしまう。

草木も、人も、この世に必要だから生まれてきた

 人間社会から山川草木、動植物の姿に目を転じるとよくわかります、人間のみが自らのしがらみにからみついてあたふたと、一人であがき苦しんでいます。草木は飾らない、背伸びしない、ありのままに、自然の恵みを受けて生きています、人間も草木とどこが違うというのでしょうか。
 草木も動物もそして人間も、個性豊かだから、お互いがある、生きとし生ける一切のものはみな、個性豊かであるから互いに生かし合えるのでしょう。背伸びすることも、取りつくろうことも、飾り立てることも、本当は何の意味ももたないでしょう。

 草木も人も、この世に同じもの、代役をしてくれるものはいません。つまり、どの草木も、どの人もこの世に必要だから生まれてきました、どんな生き物も同じでしょう、一つでも欠けると、不都合になる、だからただ、それぞれが存在しているだけで十分に意味をなしています。

 この世に生まれてきてよかった、自分にはこんなことができる,自分でないとできないことがある、他の人が自分を認めてくれる、このような気持ちをもち続けることです。つまるところ、自分自身の軸足というか、信念というか、価値観の基本がしっかりしておれば、世間の動き、他人の影響などというものに振り回されないでしょう。
 りきんで、見栄をはって生きているのは人間だけです、だから、肩肘はらず、りきまず、見栄はらず、只今をそのままに生きることです、健康に気をつけ、他に迷惑をかけずに生きることです。草木と人間が唯一ちがうところは、人間は他の生き物や、他の人の幸せを願い、他のためにと気遣うことでしょう。

 「薬」は病気の治療・予防に使うものですが、「薬」という字を、草木により気持ちが楽しくなると、このように理解して、草木を見たり、草木にふれたり、草木を育てることにおいて、精神の安らぎが得られるでしょう。草木や、自然の移ろいはすばらしいものです、千金に値します。

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