仏法にかならず浣洗の法さだまれり。 あるひは身をあらひ、心をあらひ、足をあらひ、 面をあらひ、目をあらひ、口をあらひ、 大小二行をあらひ、手をあらひ、 鉢盂(ほう)をあらひ、袈裟(けさ)をあらひ、頭をあらふ。 これらみな三世の諸仏諸祖の正法なり。 正法眼蔵洗面 |
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朝起きたらまず歯を磨き顔を洗う、なにげない日常の習慣ですが、一日の始まりにはとても大切なことです。朝起きて洗面と歯磨きをしなければ、気持ちがシャキッとしないとか、人前に出られないという人があります。また美容には欠かせないことだという人もあるでしょうが、朝一番に洗面することで清潔が保たれ、気持ちが一新します。 今から八百年前の鎌倉時代においては、朝の洗顔や歯磨きの習慣は日本人にはまだなかったようです。それで、道元禅師は修行の道場において、顔を洗うことや歯を磨くことなど、身を清めることは心を清めることであるから、修行僧に洗面や歯磨きをすることを習慣づけられました。 手を洗い、顔を洗い、頭を洗う、足を洗う、口を洗う、爪を切る、大小便のあとを洗う。身心を洗い清めて汚れを除き去ることは心を清浄にすることで、仏法の根本です。身を洗い心を洗い清めることによって、自分の住する環境も、ともに清浄になると道元禅師は教えられました。 道元禅師は禅の修行において、歯磨や洗面をすることを大切な日常の修行とされました。また入浴や、便所での作法も示され、浴室と便所は坐禅堂とともに、声を発してはならないところ、三黙(さんもく)道場として、大切な修行の場とされました。それは身体を清めることが心を清めることにほかならないからです。 |
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修行とは、不染汚(ふぜんな)の自己を保ち続けること
洗浄とは自分の身心を洗い清めることであり、不染汚とは汚れていない、清浄であるということです。人は生まれながらに無垢で清浄の不染汚であるとされています。洗面とは顔を洗い清めることですが、不染汚である自己をさらに洗うことで、不染汚を保つことになる。修行として洗面することの意味とは、そういうことだと道元禅師は教えられました。 お寺の境内や堂内を掃除することも同じことで、汚れを掃き清めることもさることながら、もともと汚れていない不染汚のところである境内や堂内を不染汚の状態に保つことに意味があります。掃除も洗面もともに不染汚を保つということであり、毎朝の洗面も、毎日の掃除も、そのまま不染汚の修行にほかなりません。 坐禅をしていると、身についている煩悩という汚れが落ちていきます。だが、落としてもすぐにその後からまた新たな煩悩が生じてきます。これを次々と落とし不染汚を保つことが坐禅です。坐禅を続けているかぎり本来の自己である不染汚の自己、すなわち仏性が現われる。この仏性の現われている状態を不染汚の自己といい、仏という。 顔を洗うこと、身体を洗うこと、掃除をすることは、坐禅と同じく煩悩の汚れを落として心を清浄にする修行です。煩悩に汚染されていない、すなわち不染汚とは、もともと汚れていないという意味ですが、煩悩の汚れを落とすから不染汚が保たれます。不染汚の自己を保ち続けることが日々の生活という修行です。 |
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坐禅とは、動きを止めて、手を組み足を組み、姿勢を正して身を調え、呼吸を調え、自意識をはたらかすことなく、坐ることです。心が調うと、おのずから三毒である貪瞋癡(とんじんち)すなわち、むさぼり・いかり・おろかさの心が封じ込められることから、さまざまな煩悩が生じなくなります。たとえ煩悩が生じても、やがてその炎は消滅します。坐禅するところ煩悩が滅却されて、悩みも苦しみもありません。 道元禅師は坐禅を証(さとる)ための手段とされなかった。なぜならば坐禅を行じていることがそのままに不染汚が保たれた本来の自己の現れ、すなわち証(さとり)であるからです。証は悟りで、坐禅を行じるという修行は、証(悟り)と一つのものであるとされ「修証は一等なり」といわれました。 坐禅を行じているところ煩悩の汚れはなく不染汚ですから、一点のくもりもありません。煩悩の炎が消滅しているかぎり、自己は不染汚です。修行とは身心の汚れである煩悩の炎を滅却して、不断に不染汚を保つことです。 煩悩の炎が消滅して不染汚が保たれていることを、本来の面目が現前するという。本来の面目が現前するとは、悟りのあらわれであり、坐禅の自己がそのまま仏であるということです。坐禅を行じるのは自己であり、坐禅を行じる自己がそのまま仏であるから、道元禅師は、坐禅は「不染汚の修証(しゅしょう)」であるといわれた。 |
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| 自己の修行が、そなまま法界(真理の世界)を洗い、国土を洗い清めることに通じる しかし四六時中坐禅をしないから、日常の行住坐臥の一挙手一投足をことごとく修行と心得て、三毒・貪瞋癡(とんじんち)の働きに身を任せることのない生き方をこころがける。修行あるところ、煩悩の炎が消滅し、不染汚が保たれるから、悩み苦しみのない生き方となる。 洗面や身を清めること、食事、掃除、坐禅、ことごとくが修行であり、修行がそのまま証(さとり)です。証・悟りとは不染汚が保たれ、仏らしさ、本来の面目があらわであるということです。 道元禅師の正法眼蔵弁道話に、「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。」とあります。 人は修行によって証(さとり)をうるのでなく、さとりの上にさらに修行します。洗面も掃除も、坐禅も、もともと汚れていないものをみがくことが修行ですから、道元禅師は「不染汚の修証」といわれた。そして、修行と証(さとり)とは一つのもの、「修証は一等なり」といわれました。 秋は紅葉の美しい季節です、また落葉の季節です。落ち葉が秋の風情であり美しいというけれど、掃き清めなければ積もるばかりです。掃くあとから舞い散る落ち葉、それも秋の景色でしょう。 「掃けば散る、掃かねば積もる、庭の落ち葉も、心の塵も」。掃くところ心の塵も消えて清浄なり、不染汚なり、です。 掃除機で塵を吸う、また電動カミソリで髭を剃ると、青ランプが赤に変わる機器がある。歯磨き、洗顔で、細菌、垢、の有る無しを、また人間の性格判定を、人工知能AI搭載の機器で数値化できても、心の清浄(不染汚)度は数値化できないでしょう。なぜならば、不染汚とは仏性そのものであり、大宇宙のありさまが現前したものであるからです。 道元禅師は、自己の修行が、そのまま法界(真理の世界)を、国土を洗い清めることに通じると、仏道修行の大義を説かれました。 |
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