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世には 見れども 見ざるものあり よく観るもの少なし 網を逃れる鳥の 少なきがごとく こころの安らぎを 得るもの少なし 法句経 (174) |
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今とはこの一瞬で、それは時間であり、存在である 宇宙の始まりから今までが過去です。そして、今というこの一瞬の時があり、宇宙の終焉に至るまでが未来です。私たちはこの一瞬の時、「今」に生きています。しかし、過去も未来も、今という一瞬の時も、人間の認識によるところの時間であるけれど、それは宇宙の一瞬の時でもある。 過去も未来も、今という一瞬の時も時間です。時間とはビックバーンで始まる膨張する宇宙そのもので、時間とは光の速度です。また時間が、あらゆる物質の存在を意味づけるものでもある。そのあらゆる物質の存在するところの一点を人間はこの世であると認識しています。 そのあらゆるものの存在は、ことごとくが常に同じ状態をとどめていない、すなわち無常です。万物はみな生じて、そして滅するものであり、宇宙も始まりがあり、終焉があるといわれています。つまり永遠不滅のものはないから無我である。お釈迦様はすべてが原因と縁(条件)によること、縁起の理法をおさとりになられた。すなわち宇宙も人間も、無常であり、無我であるということです。 宇宙とは時間であり、そして存在です。その存在は宇宙の星々で、その成分は、炭素、水素、鉄といった様々な元素からなり、その元素が互いに関係すること、すなわち縁起の理法に基づいて物質として存在している。縁起により生じ、あるいは滅することから、人間も、そしてあらゆる生命体も宇宙の元素により成り立っており、ことごとくが無常であり無我であり、いずれも一瞬の「今」の存在であるということです。 むろんのことですが、二千五百年前のお釈迦様の時代には宇宙のことも、さまざまな元素についても、今日のように明らかではなかった。 |
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万物はみな生じて滅するもの この世のことごとくが縁(条件)により互いに関係して、原因となり結果となりて存在しています。元素が組み合わさって物質として存在しているから、結合(生)するとともに崩壊(滅)もする。だから存在する物資はことごとくが生じては滅するものであり、一つの例外もありません。 さまざまな元素が関係し合って地球上に生命が誕生した。そして、その生命は環境の変化に適応することで進化し、変異して、繁栄と滅亡をくりかえして、さまざまな生命の種が生まれてきました。人間も地球生命の一つで、人は生まれて成長して、そして老いて死んでいく。万物はみな生じて滅するものであり、生あるものは必ず滅します。 永遠不滅な固定した実体はないから、永遠不滅な命はない。親から子に命が受け継がれるから、命は連続しています。命の根本は遺伝子であり、生まれた命は滅するが、親から子に遺伝子が伝承されて、命は連続している。 薪は燃え尽きると灰になるが、薪は薪であって灰ではない、灰は灰であって薪でない。夏に移るという春はなく、春の時は春で、夏の時は夏であると、このように道元禅師は正法眼蔵の生死の巻きで説かれています。親の遺伝子が子に受け継がれるというけれど、子は親である父母の遺伝子を受け継ぐけれど、子の遺伝子は全く新しい遺伝子です。 |
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一隻眼で見れば、真実真理のあらわれを識る
人が川の流れに風情を感じたり、川の流れに人生を重ね合わせて、もの思いにふけようとも、地球の重力によって水は高きから低きに動いています。それを川が流れるといいますが、橋から見下ろして、流れに執着してしまうと水が見えなくなり、橋が流れていくように思える。水は是れ水であり、橋は是れ橋であり、山は是れ山です。 真実真理を見誤ればそれは真実真理でなくなる。見誤る原因は、何ごとにつけても人は我執により分別で受けとめて妄想してしまうから、ありのままに受け取れないのです。川を見ていると、水の流れが見てとれる、それを川が流れるといい、景色として人間は認識している。 人の眼は二つある、だから何ごとも相対として分別で見てしまうから、真実真理を見誤って、その本質を見失ってしまいます。けれども仏さまの眼である一隻眼で見れば、何ごとにつけても分別でなく素直に受けとめられて、この世の存在のことごとくが真実真理のあらわれであると認識できる。 水は流れて川は流れずというべきか、流れる水の集まりを川というのか、いずれにしても、水は水であり、川は川である。豪雨があると川は氾濫して、川は消えてしまいます。水と川は一つのものであって、一つのものでない。水は流れて、橋は流れずで、水の流れが川である。人も心身一如であるのに、人は心と身体を一つのものと観ないから、悩み苦しみを抱え込むことになる。 今とはこの一瞬で、それは時間であり、さまざまなものの存在でもあるから、存在は真実真理の現れです。 |
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基本軸がぶれない、それが只管打坐(坐禅)です 私たち人間も、動物、植物も、山川海も夜空に輝く星々まで、すべてが元素の組み合わせからできている。人は、あの人は美人だイケメンだと評するけれど、人体を構成する成分も炭素や鉄など、星の成分である元素と同じです。だから人は尽十方界真実人体であると道元禅師はいわれた。お互いに宇宙の星の成分による真実人体だから、人は互いに対立し争うことも、お互いに人間関係で悩むことも本来はないはずです。 けれども人は欲望のままに生きるから、ものの本質を見誤ったり、正しい認識をすべきところを違えてしまうようです。こうして人間は我執により自分自身で苦しみや悩みを引き起こしてしまいます。したがって、心静かに 自分が真実人体であることを自覚して、真実人体らしく真実真理に違わない生き方をする。これが本来の人としての生き方です。真実人体らしく真実真理に違わない生き方をお釈迦様は涅槃寂静といわれた。 世には 見れども 見ざるものあり よく観るもの少なし 網を逃れる鳥の 少なきがごとく こころの安らぎを 得るもの少なし 法句経 (174) 本来の人である真実人体らしく生きるためには、基本軸がぶれないように心がけることが肝心です。基本軸がぶれない、それが只管打坐(坐禅)です。この坐禅の生き方を基本姿勢とすれば、正しい生き方の基本軸が保たれます。 自分自身を誤魔化さないで、正直に生きることで、悩み苦しみなく生きられる。これがお釈迦さまのお悟りの根幹で、涅槃寂静といわれた。道元禅師は修行とさとり・証は一つのものなり、修証一等とは只管打坐(坐禅)であり、是れすなわち涅槃寂静なりと諭された。 |
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