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仏の御いのち | |||||
この生死は、即ち仏の御いのちなり、 これをいとひすてんとすれば、 すなわち仏の御いのちをうしなはんとするなり、 これにとどまりて、生死に着すれば、 これも仏のいのちをうしなふなり、 仏のありさまをとどむるなり、 いとふことなく、したふことなき、 このときはじめて、仏のこころにいる。 正法眼蔵・生死 |
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人それぞれにさまざまな人生がある。人それぞれの生き方がそのまま人生です。だから十人十色の生きざまがそのまま十人十色の人生です。ですから、どう生きようがそれぞれの生き方です。だのに他の人の生き方が気になるのも人情というものです。 人は自分の生きてきた過去を振り返り、自分の人生を評価したがります。そして、過去を悔やむ人もあれば、まったく過ぎ去ったことを気にかけない人もある。他人の生きざまを気にかける人もあれば、我が道を行く人もあるからおもしろい。いずれにしても、だれもが自分の人生を歩んでいます、しかも人生のまっただ中にいるのです。 何人であっても時の流れはみな同じだけれど、流れの速さに乗りきれている人もあれば流されている人もある。そして、だれもが他の路線に乗り換えられるでしょうから、可能性は無限にあるはずです。 人生とは、人がこの世で生きていくこと、生きている期間、生きている間の活動や経験などを指す。人生の目的、なぜ人は生きるのかということですが、それは、幸せを求めるとか、自己実現ということでしょうか。 人生とは人が生きている只今のことだととらえる人もあれば、生きている間だという人もあれば、生きてきた足跡みたいなものだという人もある。考えることも面倒だと思う人もあれば、慎重で繊細な人もある。 自分の力で生きているようであって、生かされているのかもしれません。それというのもこの世とはつながりの中にあるからです。つながりの中で生きている、縁によってことごとくが変わるから、関係の中で生かされているのです。このことだけははっきりしているようです。 |
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宇宙と人生とをつらぬく真理を体得する
私たちがこの世に生まれてきたのは、父母という存在があるからです。そして祖父母ありということで、脈々として受け継がれてきた命のもとに私たちがうまれてきた。しかもそれは自分の意思でなく宇宙の意思によることから、道元禅師は仏の御いのちといわれた。万物生命は宇宙のこころそのものであるからです。 人間が人間になる、仏が仏になる、人間完成とは真人になることで、これを仏道という。「仏道をならふといふは、自己をならふなり」「自己をならふといふは、自己をわするなり」「自己をわするといふは万法に証せらるるなり」「万法に証せらるるといふは、自己の心身、および他己をして脱落せしむるいなり」と道元禅師は説かれましたが、この万法は、宇宙と人生をつらぬく真理です。 禅寺の台所を修行の場とし、修行僧の食事をつくる典座の心得を道元禅師は、典座教訓として書きのこされた。その任にあたることに喜び感謝する心「喜心」。食べてくださる人のことをおもいやれる慈悲の心「老心」。なにごとにもかたよらない寛大な心「大心」。この三心を典座職につくものは保持すべきであると教えられた。どんな職業であってもこの心が大切であるということでしょう。 お釈迦さまは明星の輝きをご覧になって、宇宙と人生をつらぬく心理をさとられました。宇宙のこころ、すなわち宇宙と人生をつらぬく真理をさとることを生きがいとするのが仏教徒の生き方です。 宇宙のこころ、すなわち宇宙と人生をつらぬく真理を体得するには、「喜心・老心・大心」を我が身に具えて、日常の生き方を仏道とすべきであると、道元禅師は説かれたのです。 |
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道元禅師は修行僧に、威儀すなわち作法にかなった振る舞いは仏法そのももであると説いています。それは日常の洗面であり、身を洗い清浄にすることもその一つです。便所の使用法や作法、爪を切り、頭を剃ることは、日常の修行であり、威儀即仏法であるとされた。 一般には汚れているからきれいにする、汚れていなければ掃除しなくてもよからうということですが、禅の道場では淨穢は問題でなく、掃除することが修行です。 掃除は塵を払い清浄にすることであるが、汚れているか否か、淨不浄にかかわらず、もとより清浄であるところを清浄にたもつことです。掃除が掃除をするということです。 もとより不染汚のところであるから、淨、不浄と、対立的に観ないのが修行者の立ち位置でなければなりません。淨だ不浄だといっているうちは自分がというエゴがひっかかっている。自分を忘れることができなければ淨不浄にこだわり便所掃除も庭掃除もうまくできない。 とかく淨である不浄であると二辺でとらえがちですが、淨と不浄の分別をなさず、無分別のところが威儀即仏法です。 便所と浴室は坐禅堂とともに大切な修行の場であるとされています。傲慢な人間であっても浴室や便所の掃除をすることで、己の心も清浄になる。陰徳を積むことは慈悲行です。 |
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仏道とは仏の御いのちを生かすこと 「永平寺の総門の左右に「杓底の一残水、流れを汲む千億の人」と書かれた大きな石の門柱があります。道元禅師が永平寺に住まわれたときに毎朝門前に流れる清らかな谷川の水を汲まれた。柄杓に残った水は捨てずにもとの谷川にもどされた、僅かな水でも粗末にしてはならぬとされた。人は大自然に生かされているということとともに、杓底の一残水を尊ぶ心がそのまま社会とつながる利他行の実践であることを教えられたのです。陰徳を積むことが慈悲心を育むことになるという教えです。 この世は縁起の理法によりことごとくが現象しています。因縁により因果しているから、この世とはことごとくが関係して成り立っている。ですから、陰徳を積むことが慈悲心を育むことになる。そして慈悲心を身につけておれば、自他不二で、自利と利他が一つのものだから、したがって慈悲心あるところ、利他行となり、ことごとくが生きがいに通じるということでしょう。 「この生死は、即ち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなはんとするなり、これにとどまりて、生死に着すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり、仏のありさまをとどむるなり、いとふことなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。」 道元禅師はこのように正法眼蔵・生死で説かれました。 この世は関係で成り立っており、人は関係のもとに生かされている。ですから、この世で幸せを感じるのは、他から必要とされ、他から感謝され、他から尊敬されることでしょう。そういう生き方が継続できたならば、その人は随所に生きがいが感じられる。すなわち、利他の生き方がなされておれば、生きがいがともなってくる。それは、宇宙から与えられた御命である自分という仏に向き合うという生き方だからです。証(さとり)と修(修行)は一つのものだから、仏道とは仏の御命の生かし方であり、生きがいそのものでしょう。 |
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