2022年9月1日 第284話
             
十五夜

      又見んと 思ひし時の 秋だにも
         今夜の月に ねられやはする
 
道元禅師
       
  道元禅師は療養のために京都に帰られた。中秋の名月を眺めて詠まれたが、
  この月の二十八日(陽暦九月二十九日)入滅されました。


帰省

 コロナ禍でここ2年ほどはお盆にも正月にも帰省しなかったという人が多いようです。けれどもコロナの感染を気にしながらも、この8月のお盆には帰られた方が多くあったようです。帰省とは故郷に帰ること、故郷に帰って父母の安否を問うことですが、久しぶりに帰省された人たちは故郷でどのように過ごされたのでしょうか。そして故郷に帰られて何か気持ちの変化があったのでしょうか。

 中島みゆきさんの作詞作曲に「帰省」というのがあります。

  遠い国の客には笑われるけれど
  押し合わなけりゃ街は電車にも乗れない
  まるで人のすべてが敵というように
  肩を張り肘を張り押しのけ合ってゆく
  けれど年に2回 8月と1月
  人ははにかんで道を譲る 故郷(ふるさと)からの帰り
  束の間 人を信じたら
  もう半年がんばれる

  機械たちを相手に言葉は要らない
  決まりきった身ぶりで街は流れてゆく
  人は多くなるほど 物に見えてくる
  ころんだ人をよけて交差点(スクランブル)を渡る
  けれど年に2回 8月と1月
  人は振り向いて足をとめる 故郷からの帰り
  束の間 人を信じたら
  もう半年がんばれる

 人は故郷を思慕する心をもっているから、お盆や正月に帰省したくなります。お盆に故郷に帰ると、だれもがやさしさの心をとりもどすのでしょう。故郷に我が身をおくと、自己を失いがちな日常からぬけだせて、自己をとりもどすからです。そして、この歌のように、通りがかりの見知らぬ人にも道をゆずったり、ころんだ人があれば手を差しのべるやさしい心になれるのです。

 お盆の墓参りをしてご先祖や亡き人への思いをつのらせると、死という避けがたい事実に厳粛な心情をおぼえるでしょう。先祖の墓参りをすることで命と向き合うからです。自己自身の存在を新たに意識し、やさしい自分の心を感じ取ることで真面目に生きようという思いがはたらきます。自己の真の姿や自己の尊厳に気づこうという思いも起こるでしょう。そして、人生すなわち、自己の生き方を考えるのです。


日本人の宗教心

 忙しくふるまう人も何かのつまずきの瞬間に、ふと郷愁を感じることがあるでしょう。都会の喧噪や華麗さに幻惑されて、故郷を忘れている人でも、なにかのはずみにふと故郷のことに思いをはせることがあるでしょう。すると、もうやもたてもたまらず帰りたくてしかたがない、そのもどかしさが郷愁というものでしょうか。この郷愁は自己の内なる世界を慕うということでもあるのでしょう。

 「故郷」という歌を日本人はよく口ずさみます。

  兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
  夢はいまもめぐりて 忘れがたき故郷

  如何にいます父母 恙なしや友がき
  雨に風につけても 思いいずる故郷

  こころざしをはたして いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷 水は清き故郷

 室生犀星は「故郷は遠きにありて思うもの」と、石川啄木は「ふるさとの山に向ひて言うことなき、ふるさとの山はありがたきかな」といっています。心の中の故郷とは、あたたかでやさしい母の懐のぬくもりであったり、雄々しい父のもとでの安心感かもしれません。また青き山々、清き川、風渡る野原、そういう原風景でしょうか。けれども生まれ育ち遊んだ里山に兎が跳びはねることもなく、小鮒がおよいでいる川もなくなってしまいました。

 故郷を遠く離れて住む人も、お盆には故郷の墓参りに帰ります。故郷の神社に参り、盆踊りの輪にも加わり、故郷の懐かしい人々にも出合います。山も川も、そして虫も、頬をなでる心地よい風さえも故郷です。故郷はご先祖の世界そのものだから、ご先祖に手を合わす、これが日本人の宗教心でしょうだが、都市での生活が長くなると、故郷はいっそう遠いものとなり、やがては今住んでいるところが故郷になるのです。

 仏らしく生きる

 郷愁とは故郷を恋い慕う気持ちのことをいいますが、自己の内面に問いかけるのも郷愁といえるのかもしれません。人は真面目に生きようとするかぎり、自己自身の存在について、自己の真の姿とはどういうものなのか、よりよき人生とはどのような生き方をいうのか、自己の内面に問いかけ、真の自己に目覚めようと思うでしょう。

 現代は合理性と科学性が優先する時代だから、これとかけ離れた宗教など要らないと思っている人も多いことでしょう。ところがだれかの死に直面するとか、精神的に疲れてしまったり、深い悩みに沈んでしまうと、人は心の安らぎをもとめて宗教に心の解放をもとめようとします。

 安倍元総理の非業の死をめぐって、宗教と政治の関わり合いがとりわけ話題になっています。けれども現代に生きる人々の間では宗教についてあまり語られていないようです。宗教とは人間の生命の一番奥深いところから湧き出てくる清い泉のことをいうのかもしれません。

 人間の生命の一番奥深いところから湧き出てくる清い泉が宗教であるとすれば、それは、次のようにあらわされるでしょう。
自己の尊厳を自覚して、自己の命を生かしきることの教えということです。自己が真実人体であることを自認して真実の生き方をすることの教えです。人はそのまま仏なり、我が身ながらに尊しで、生まれながらに仏であることをさとり、仏として生きる。この世は仏心そのものであり、仏心に生まれ、仏心に生きて、仏心に死んでいくのです。したがって、自己の仏心に目覚めて仏心に違わない生き方をするということです。

十五夜に、今宵限りと虫が鳴く

 コロナの感染が終息しないために、日常のあれこれが変わってしまいました。とりわけ人と人とのつながりにおいて、人間関係がいっそう疎外されてきたようです。そして世の風潮として、合理性と科学性がより優先されるようになってきたのかもしれません。それでコロナ禍精神的に疲れてしまったり、深い悩みに沈んでしまう人も多いようです。

 故郷はご先祖のおわすところだから、お盆に帰省してご先祖に手を合わすことで、安らぎの心とやさしさの心をとりもどせたでしょう。
今住んでるところが故郷である人も、お盆にご先祖のお墓にお参りして、おだやかな気持ちになれたでしょう。先祖を崇拝し、大自然に畏敬の念を抱くことで、安らぎの心とやさしさの心を身につけて、お天道様に恥じることのない生き方をする。これが日本人の宗教心です。

 墓参りをすることで、死という避けがたい事実に厳粛な気持ちになれるのです。そのことによって生まれてきたこと、そして、今生きていることの不思議さと命の尊さを思うのです。限りある命と、時光の速やかなることをあらためて感じることから、今を生きる、いつでも今が出発点であるという認識をあらたにします。

 やさしさの心を呼び起こせたならば、人も、生きとし生けるものすべてが共に生きている、共に生かし合っている、この世は仏心の満ちたる共同体であることに気づくでしょう。宇宙・地球・社会・職場・学校・家庭、すべてが仏心という共同体です。それで生きているということは、それぞれが共同体に貢献(利他)することだと認識できるでしょう。そのことによって、今、ここに生きていることの幸せが実感できるのです。

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