2021年12月1日 第275話
             
さとりの実践

  それ修証は一つにあらずとおもえる、すなわち外道の見なり。
  仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、
  初心の弁道すなわち本証の全体なり。
正法眼蔵
弁道話


我と大地有情と同時に成道す

 お釈迦様が二十九歳になられた頃、お悩みがもっとも深刻な状態でした。発心されたお釈迦様は、妻子も地位も財産も捨てて出家されました。だが、その後のお釈迦様は、さらなる悩み苦しみの日々でした。
 お釈迦様の苦行は六年も続きました。ウルベーラー村のネージャラー河の畔にたどり着かれた頃には、もう歩けない状態であったと伝えられています。

 これまで六年にもわたる自分がしてきた修行の日々はいったい何であったのだろうかと振り返られたとき、体が衰弱する苦行をさらに続けていてもけっして悩み苦しみからのがれられない。そう思われたお釈迦様は苦行に見切りをつけられ、ブッダガヤの大きな菩提樹の下で坐禅に入られました。

 12月8日の朝まだき、坐禅を続けておられたお釈迦様は東の空を仰がれた。明星の輝きをごらんになった時です、「我と大地有情と同時に成道す」と、心の叫びを発せられた。お釈迦様がおさとりになったのです。天空の星々、山川草木、生きとし生けるもの、この世の一切の現象・存在は真理が露
(あらわ)になったものである。その真実の有り様を、そのままに受けとめられ、「同時に成道す」とは、真理と一つになられたということです。

 お釈迦様は、諸法実相(この世の一切の現象・存在は真理が露になったものである)をさとられたのです。一切の現象・存在は真理の現れであり、ことごとく光明の輝きを放っている。ところが私たち凡夫は我執を離れられないことから、このことに気がつかないのです。それは、その事実を受けとめようとする姿勢を欠いているからでしょう。

縁起の理法

 インドには古来より輪廻という考え方があります。輪廻とはサンスクリット原語では流れること、転位を意味します。生ある者が生死を繰り返すことを指し、輪廻転生ともいう。また衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることなく、迷いの世界を生きかわり死にかわりすることも輪廻という。

 輪廻転生の考え方によると、心の本体(心性)は常住(永遠不変)で滅することがなく、この身は仮の姿であり、生まれては死にを繰り返す。つまり、肉体が滅びても精神は不滅だという。これをたとえていうと、住んでいる家が焼けてしまうと、そこに住んでいた主は出て行く。家はうつり変わるが家主はいつも変わらないというようなものです。生まれたからには死ぬということですが、永久に生死の輪廻が続くから、生死を心配したり悲しんだりすることもないというのです。

 お釈迦様は菩提樹のもとで坐しておられた。坐しておられたお釈迦様は縁起の理法に気づかれたのです。 現前のあらゆるものも、人間の心の動きも、縁起により生滅しているという事実をさとられた。縁起とは由って起こるということで、この世の一切の現象・存在は種々の原因(因)と条件(縁)により、生じたり滅したりするというのが縁起の理法です。

 身と心は一つであると、身心一如であることを仏法は説くから、この身が滅するとき、心だけが身から離れて滅しないということなどありもしないのです。人が死んでも自我は存続するということはないので、身は滅するが心は不変だとすることは正しい道理ではありません。縁起の理法とは輪廻転生の否定でもある。身と心を分けて考えるのは、仏教以外の思想家の考えだということです。

安楽の法門は坐禅なり

 この世に存在するものは、なにもかもがつながっています。何一つとして、それのみで存在しているものなどありません。そのつながりにおいて、生まれ、つながりがなくなれば滅する。一切のものは種々の原因(因)と条件(縁)のもとで(縁起により)成立しています。縁起のもとに生じて、縁起のもとに滅していく、すなわち諸法無我なりと、お釈迦様は教えられた。
 このことは同じ姿を止めているというものは何一つないということで、すべてが移り変わりゆくものばかりであるから無常です。すなわち諸行無常なりと、お釈迦様は教えられました。

 この世の一切の現象・存在は、仏性(自性清浄心・仏心)が露になったもので、ことごとくが仏(仏性の現れ)であり、の智慧(さとり)の満ちたところであるから、もとよりこの世とは涅槃寂静であると、お釈迦様は教えられた。
 
 涅槃とは煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地で、悩みも苦しみもなく、寂静とは心静かで安らかであるということです。
お釈迦様は涅槃寂静に入る安楽の法門は坐禅であると教えられた。道元禅師は只管打坐がその境地であるとされました。只管打坐とは、ただひたすら坐禅することで、全身心をあげて坐りぬくことです。道元禅師は坐禅を自受用三昧とされて、坐禅になりきることを三昧王三昧といわれました。

 自受用三昧とは、仏法(お釈迦様の教え・さとり)の体験のことで、それはただ坐禅することによってのみ得られるものです。仏法は、宇宙いっぱいにひろがっているものであり、めいめいの身の上にもそなわっているものでもあるが、修行しないと現れない、修行して実証しないと自分のものになりません。
 「この法は人々の分上にそなわりといえども、いまだ修行せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」と道元禅師は説かれました。


サイの角のようにただ一人歩め

 仏法の体験は坐禅だけでなく、他に多くの入り口があるだろうといわれるかもしれませんが、坐禅が正しい入り口である。ではなぜ坐禅のみが正しい入り口であるというのか、それはお釈迦様が得道の妙術とされたのみならず、インド、中国の祖師方はみな、坐禅から道(さとりの境地)を得られたからです。
 自受用三昧とは、人間の営みの全くない妙術です。なにものにもとらわれない自由な境地です。煩悩が生じる根源である身と口と意(こころ)の三業を鎮めて、人間の意識作用でとらえることをやめて、正しい姿勢で坐禅することをまっすぐな入り方としています。

 そもそも修行とその実証(さとり)が一つでないと思っているのは、仏教以外の思想家の考えです。修行とともにさとりがあることから、そのほかにさとりを期待する考えを持ってはいけないのです。修行の心構えとして、さとりをもとめるために修行するのでなく、修行がさとりそのものであり、さとりと修行は一つのものであると受けとめなければならない。坐禅はさとりを目的として禅を学ぶという習禅でもない。道元禅師はこのことを修証一等といわれました。

 道を求める者の心得とは、自己にそなわる仏の智慧を実現しょうとする生き方を実践することです。自己にそなわる仏らしさをさらけ出した生き方、それが「さとりの実践」です。煩悩まみれの凡夫だからこそ、四六時中、つまりいつでも心得ておきたいことです。
 お釈迦様は智慧ある人は、自らを灯明として、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法をよりどころとして、サイの角のようにただ一人歩めといわれました。八十歳を一期とされたお釈迦様が最後に言い残された自灯明、法灯明の教えとは、このことを指しているのでしょう。

 仏教とはお釈迦様の教えで、それはさとりの実践です。日常がさとりの実践であるという生き方を仏教徒は目指します。さとりの実践とは修証一等だということですから、さとりの実践という道から逸れないことが修行であり、日々の生活として行じられれば、悩み苦しむことなく人生を歩むことができるでしょう。
 静かに坐ることが涅槃寂静の安楽の境地そのものであるから、心安らかな本来の自己にたち帰ることができる。坐禅すなわち修行とさとりは一つのものであり、さとりに始めなく、修行に終わりなし。だから、10分間坐れば10分の仏です。悩み苦しみの多い日々ですから、姿勢を直し、肩肘張らず、呼吸を調えて、椅子でも正座でもよいから坐るという一時を持ちたいものです。

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