2021年6月1日 第269話
             

 釈迦牟尼仏言、過去心不可得、
現在心不可得、未来心不可得
       正法眼蔵・心不可得


こころ

 かわいがっている猫が飼い主の顔を見てニャーとなくと、飼い主は、おまえさんお腹がすいたのか、何か食べたいのか、と猫に問う。すると猫は飼い主を見てまたニャーとなく。それで飼い主は猫に餌を与える。猫は喜んで食べているようだから、飼い主は猫の心がわかると思っているようです。

 長く連れ添っていると、夫婦の会話は少なくても、お互いの心は通じ合っているから、話さなくても、短い一言でも、互いに了解し合えていると思っているかもしれません。それは連れ添ってきたという経験があるからで、以心伝心、何事もツウカアであるとつい思ってしまうのです。だが、夫婦の間柄であっても、お互いの心はわからないものです。

 夏目漱石の「こころ」という小説があります。主たる登場人物は学生と、その学生が先生と呼ぶ人と、そしてその先生の奥さんです。その三人の心を題材にして、人間の心理を小説として描いたものです。ところが小説の中に隠れた存在として、三人の他に物語の始まる前に自死したもう一人の人物がいます。

 先生と呼ぶ人も物語の終わりには死んでしまうのですが、その奥様はそのご主人の心も、そして自死したもう一人の人物の心も、つかみ得ていたとは思われないのです。主人公である学生は卒業しましたが、心のふれあいがあったこれらの人の、それぞれの心の深きところを得ることができていたのでしょうか。人の心とはどういうものなのか、そしてそれは他人がつかみ得るものなのか、夏目漱石は「こころ」という小説をもって読者に語りかけているのです。

他心通

 禅の修行をするお寺では、食事担当の修行僧のことを典座
(てんぞ)といいます。道元禅師は食事をつくることの教えとして、「典座教訓(てんぞきょうくん)」において、料理をつくる大切な役割を担うことを喜ぶ心「喜心(きしん
)」。食べてくださる人のことを思いやれる、やさしさの心「老心(ろうしん)」。食材についても、食べていただく相手の人にも、偏りの気持ちをもたず、大きな心で接する「大心(だいしん)」。料理人である典座は、この喜心・老心・大心の三つの心を欠いてはならぬと説いています。

  人は生まれながらに無量の慈しみの心を具えています、あわれみとやさしさの心、慈悲心です。慈悲心があるから人は救われる、慈悲心があるから他を救うことができる。他を幸せにしてあげたいと願う心を慈心、他の苦しみや悲しみを無くしてあげようと願う心が悲心です。うれしいとき、楽しいときに、ともに喜び、悲しいとき、つらいとき、ともに涙するやさしい心が慈悲心です。
 「応無所住而生其心」(まさに住する所なくして、しかもその心を生ずべし)と金剛般若経にありますが、何ものにも執着せず、とらわれたこころをおこしてはならないということでしょう。執着のない心から滲み出るのが慈悲心であり、喜心・老心・大心の三つの心です


 「花は無心にして蝶を招き蝶は無心にして花を尋ぬ、花開く時蝶来り蝶来る時花開く、吾れも亦人を知らず、人も亦吾を知らず、知らずとも帝則に従う」これは良寛和尚の詩です。花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花に来る。私は他の人を知らない、他の人も私を知らない、知らずとも帝則に従うとは、自然の大道に従って生きて行くということです。ここでの無心とは見返りを求めない心であり、大道とは仏心ということでしょう。

 他心通とは、他人の心を知ることができる能力のことをいうが、自分の心さえもつかみ得ることができないのに、はたして他人の心の深きところを知り得ることができるのでしょうか。他人の心を思いやり、自分のことのように悲しんだり喜んだりする、せいぜいその程度かもしれません。道元禅師は、他心通とは、相手の神髄をとらえること、仏法すなわち仏心をとらえることが真の他心通であるといわれました。

心不可得

 金剛般若経に過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得(過去の心はとらえられず、現在の心はとらえられず、未来の心はとらえられず)とある。道元禅師は正法眼蔵で心とは自己そのものであるとして、徳山宣鑑と一老婆の問答をとりあげています。

 金剛般若経に精通していると自負する徳山和尚に一人の餅売りの老婆が「過去の心はとらえられず、現在の心はとらえられず、未来の心はとらえられずというが、あなたはどの心で餅を食らうのか、答えてくれれば餅を売りましょう」といった。徳山和尚は不意を突かれたかのようなこの問いに答えが出ませんでした。老婆は餅を売らず、徳山和尚は餅を食らうことなく立ち去ったという話です。

 徳山和尚は「空」に執着し、心とは空であるから、過去の心はとらえられず、現在の心はとらえられず、未来の心はとらえられず、という。老婆は我執をむき出しにしている。数式でたとえれば、仮に実数を5とすると、徳山和尚は空に執着して、0÷5=0と主張する。老婆の我執によれば、5÷0で、そもそも計算式が成り立たない。徳山和尚も老婆も、ともに慢心では、どこまでいっても折り合いがつきません。0÷5=0、そして、5÷0=エラーで、いずれもが真実であり、慢心では理解できないのです。生滅は縁起によることから、ことごとくが空であり0であるから無一物です。ところが、ことごとくが空であり0であるということは無尽蔵でもあるのです。

 過去心はすでに滅しており、未来は未だ来ていないから不可得である。未来の心といっても瞬時に現在の心となる。現在の心も瞬時に過去の心となる。まして迷妄の分別心によるものであれば、それは不可得というべきであり、現在の心は存在しないことになる。心はどこかにあるというものでもなく、いずれの心も自己そのものです。絵に描いた餅では空腹は満たせず、我執の心で餅を食っても美味くないでしょう。

仏の心

 老婆との問答の時、徳山和尚には仏心ということがわかっていなかった。徳山和尚の心不可得は、「空」に執着した知識としての認識にすぎなかったのです。お釈迦様は三界(すべての世界)はただ一心なりといわれた。存在しているものすべてが仏心、すなわち真実の現成であるから、山川草木も、自己も、この世のことごとくが、過去現在未来、いつでも仏の心そのものであるということです。だから、餅を売り買いする人も、餅を食べる人も、そしてその餅も仏の心であるということです。

 道元禅師はこの問答について、さらに付け加えておられる。それは、徳山和尚が老婆に対して、それではどの心で餅を食べればよいのかと、教えを請う謙虚な姿勢があってもよいのではなかろうか、また、老婆もわがままを押し通さずに素直な気持ちで応対してもよさそうだということです。徳山和尚も、老婆も、ともに学道の人であれば、慢心を捨て、すべからく素の心たるべしということでしょう。

 徳山和尚と老婆の、過去・現在・未来のいずれの心で餅を食うのかという問答は、お互いの慢心のために答えが出なかった。禅寺での間食を点心ということから、茶うけの菓子もそのようにいわれるようになった。徳山和尚は老婆から心の点検をされたことで、餅を点心できなかったのです。世の中の現象・存在のことごとくが縁起により生じ、縁起により滅する、しかもそれは而今・一瞬の事象である。だから、今日只今の心で餅を食べるという生き方が良さそうです。

 この頃はコロナ禍の不安なご時世です。「面白きこともなき世をおもしろく住みなすものは心なりけり」これは高杉晋作の辞世の句といわれていますが、「面白きこともなき世をおもしろく」という上の句を晋作が詠んで、野村望東尼が下の句「住みなすものは心なりけり」と続けたということです。

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