2019年12月1日 第251話
             
生死の一大事

   仏道は一大事なれば、一生に窮めんと思いて
日日時時を空しくすごさじと思うべきなり。
    古人のいわく、光陰虚しく度ることなかれと云々
                   正法眼蔵随聞記


人間は宇宙人

 顔だちが美しい女性を美人だとかべっぴんなどと言います。花にたとえて、いずれがアヤメかカキツバタとか、美人の姿や振る舞いを花に見たてて、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花などと言います。ところが 死んで荼毘にふされると、いずれであっても骨壺の白い骨になってしまい、美男美女の片鱗も感じられないのです。

 美男美女の形容に使われる表現として、水も滴る良い男とか、良い女などといいます。たしかに人間は人体の60%は水であるからそう言うのかもしれません。
 人は自分の容姿をさげすんだり、美男美女をうらやんだりしますが、しょせんは、人体のほとんどが水であり、星々の成分である炭素や酸素、鉄、などの元素からなるから宇宙人なのでしょう。

 人は人と関係しながら生きています。だから、美男美女であろうがなかろうが、人間関係の悩みは尽きないようです。人の悩みのほとんどが人間関係です。だれでも自分が一番大切だから、自分ファーストで、自己中心(利己)の行動をとってしまいます。自己中心に行動することが人間関係で悩みが生じる元凶だということでしょう。

 人間関係で悩んでいる人の姿は次のいずれかが多いようです。「対人意識過敏」「過去を引きずる」「悩みの根源を他とする」というのが、悩む人の特徴のようです。だれでも自分が一番大切で他人のことまでかまっていられないというのが本音だから、他の人のことなどそれほどに気にかけていないのですが、自分が注視されているとか、関心をもたれていると思い込むことで、自分を悩ませてしまうようです。そして他の人の存在が悩みの根源であると思ってしまいます。そして過ぎ去ったことをいつまでも引きずっていると、今が、そして未来までもが不安になってしまうのです。

生かされているということを認識する

 自分の悩みの原因が他にあるとすれば、他が変わらないかぎり悩みは解消しないことになります。そうでなく、悩みの元は自分自身にあるのですから、自分の生き方を変えることで悩みは解消するでしょう。悩みの根源は自分の身口意より生じる三毒、すなわち貪・瞋・癡(むさぼり、いかり、おろかさ)で、これを煩悩といいます。煩悩とは身心を悩ますいっさいの欲望であり、煩悩が苦そのものです。

 108の煩悩とは、六根×六境×三世(108)または、四×苦(36)+八×苦(72)
と数えられています。人体は煩悩の入れ物ですから、煩悩は尽きることがありません。けれども、三毒のもとである身口意の三業を懺悔し、煩悩の炎を滅除し続ければ過度の苦悩は生じないということです。それにはまず、自己の本性である自性清浄心(仏心)に気づくことです。そして四苦八苦を、ありのままに受けとることで、苦悩なく生きられるようになるでしょう。


 自分の力で生きているのだから,ことごとく自分の意向で日常の生き方をすればよいであろうと思いがちですが、はたしてそうでしょうか。肺や心臓が働いてくれるから、意識しないで呼吸しています。胃や腸が働いてくれているから食べ物が消化され栄養を摂取して命をつないでいます。ことごとく自律神経がはたらいてくれているから生き続けることができるのでしょう。生かされているという認識がなければ、健康な生き方もできないでしょう。自分にそなわっている自性清浄心に素直な生き方することで、苦悩なき生き方ができるということでしょう。

 自分の人生だからと、自分の思い通りに生きればよいではないかと思うほどに、この世は意のままにならないことばかりだと思いしらされます。なぜならば万物は宇宙からの預かりものだからです。自分も宇宙からの預かりものですから、生かされているという認識がなければ生きていけないのです。

人間の尺度から、宇宙の尺度への転換

  二千五百年の昔、お釈迦樣は苦しみの日々を悶々とされていたのですが、ついに発心して苦悩からの脱却をもとめてご出家されました。そして苦行が6年も続いたのですが、苦行にこだわってきたその苦行に見切りをつけられ、菩提樹のもとでの禅定によりおさとりになりました。お釈迦様は、こだわりそのもである人間の尺度から、宇宙の尺度への転換をなさったので苦悩から解脱されたのでした。人間の尺度を捨て宇宙の真理と一つになられた。これがお釈迦樣の12月8日黎明の”おさとり”です。

 お釈迦様は何をさとられたのかということですが、「我と大地有情と同時成道す」一切衆生悉有仏性(ありのまま)・草木国土悉皆成仏(あるがまま)をさとられたのです。仏性とは宇宙の始まりから終焉まで変わらない真理のことで、真理が露わなるものが仏であるとさとられたのです。

 万物は変わりゆくものなり(諸行無常)。縁起(条件と原因)と因果により、ことごとくが生じそして滅するものなり(諸法無我)。 只今のこの世が真理(涅槃寂静)なり。涅槃とは悩みも苦しみも消滅したことをいうのですが、凡夫の認識ではこの世は意のままにならないから、一切が皆苦であると認識してしまうようで、これこそが悩みの姿です。
 お釈迦樣は、自己のこだわりである人間の尺度から、宇宙の尺度への転換をなさったことで、苦悩から解脱されたのです。自己にこだわればこだわるほど、この世は意のままにならないことばかりであるから、一切が皆苦であると受けとめてしまいます。

 自分の命も、命を支えている食べ物も,財産も、ことごとくが自分のものでなく、万物は宇宙からの預かりものです。だから本来無一物なりということです。般若心経では、これを色即是空、空即是色とあらわされています。ですから、人間の尺度を捨てる、自己のこだわりを放下する、すなわち調身・調息・調心によって宇宙の真理と一つになれる。これを道元禅師は只管打坐と教えられました。

こだわらない、欲ばらない、がんばらない


 道元禅師は仏道は行なりと教えられました。行住坐臥、すなわち日常生活が仏道修行そのものです。それは修行僧にかぎらず、だれにでも通じることです。まず目覚めたら朝一番の心の体操です。背筋伸ばして姿勢正して、肩肘張らず自然体で、ゆっくりと吐く呼吸法です。数分でもよいから調身・調息・調心をしましょう。そして、歯磨・洗面です、 洗面とは不染汚の自己を保持することで、自性清浄心・仏心を自覚することです。そして鏡の中に今日の笑顔をつくり、一日の始まりとしましょう。

 生かされてることに気づき、身心一如であるから自律神経を正常に保つべし
です。悩みの姿というのは、ロダン作考える人のイメージそのものでしょう。だから、こだわらない、欲ばらない、がんばらないということです。悩み解消法は、背筋伸ばし姿勢正しく、肩肘張らず自然体で、ゆっくり吐く呼吸法、これを、いつでもどこでもできるから、意識して行うことによって、悩みなき日常の生き方ができるでしょう。
 
 長きにわたり人生五十年と言われてきましたが、人生五十年時代と比べると現代は二倍の人生を生きることになり、4人に1人が高齢者という社会です。現代の人生三万日の時代では、0~28歳、~55歳、~83歳、~108歳それぞれのライフステージでの生き方が大問題です。とりわけ55歳~83歳の第三ステージでの生き方がその人の人生の良し悪しを決定ずけることになるのかもしれません。これが急速に到来した高齢社会の最大の課題でもあります。


 いつでも今を人生の出発点として、真理を求め真理に生きる、すなわち向上心と慈悲心がある人は迷うことがない。だが、そうでない人はあらゆる欲望や誘惑に右往左往して、心が乱れているから常に不安な日々をおくることになります。
 「性に任じれば道に合す」仏性(真理・智慧)に合する生き方が、苦悩なき生き方の術なりということです。そして、向上心と利他心があれば、いつでもどこでも主人公でいられるから、煩悩に乗っ取られることはありません。

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