2019年3月1日 第242話
             
不謗三宝(ふぼうさんぼう)

   
   第十不謗三宝
   現身演法は世間の津梁なり。徳、薩婆若海に帰す。
   称量すべからず頂戴奉覲すべし。
   この十六条の仏戒は大概かくの如し、教に随い授に随い、
   あるいは礼受し、あるいは拝受すべし。  教授戒文


私たちの身体は煩悩の入れ物だから、尽きることなく煩悩が生じます

 お金が欲しい、物が欲しい、美味しいものが食べたい、好きなことがしたい、男が欲しい、女が欲しい、好きな人に愛されたい、ほめられたい、認められたい、他人に勝ちたい、馬鹿にされたくない、などと、人にはあらゆる欲望を限りなく求め続けてしまう心があります。これを貪欲といいます。貪欲は煩悩の中でもっとも強いものである三毒すなわち、貪瞋癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の一つとされています。

 けれどもこうした貪欲は、行動の原動力で積極的に働こうとしするモチベーションの源になりますが、怠けようとするモチベーションでもあるから、欲な心です。このように、人は何をするのにも欲望に突き動かされてしまいます。この欲望の特徴は自己中心的であることから、そうした行動によって、人間関係を壊してしまい、苦しみにつながります。限りない欲望が破滅をまねくということにもなりかねないので、欲を少なくして足を知ることが大切です。

 身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげてしまう心のはたらきが煩悩です。煩悩は自らの三毒である貪瞋癡の心そのものであり、これが悪業のもとになります。それらは身口意(からだ、くち、こころ)より生じます。
 私たちの身体は煩悩の入れ物ですから、尽きることなく煩悩が生じます。悩みは煩悩より生じるから、悩み苦しみが絶えません。燃えさかる煩悩の炎を滅除すれば、悩みも苦しみも消えていきます。ところが、また新たな煩悩が生じて、新たな悩み苦しみが生じるのです。

 はたしてこうした悩み苦しみからのがれ寂静の境地を持続できないものだろうか、これがお釈迦樣の出家の動機であったと伝えられています。そうして到達されたのがお悟りの境地でした。
 では何を悟られたのかということですが、「ああ奇なるか、我と大地と有情と、同時にに現成す、山川草木悉有仏性」これがお釈迦樣の悟りのよろこびの言葉とされています。
 天上の星も、地上の山川草木も、そしてご自身も、生きとし生けるすべてのものも、みなありのまま、あるがままを露呈して存在しているということ。この実相(真実・真理の相)すなわち仏性があらわになっているという真実に深い感銘をいだかれました。
色即是空・空即是色

 般若心経では、この世は阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)(無上の真実なる完全なさとり)の満ちたところであるから、不生不滅、不垢不淨、不増不減であるとしています。この世のすべてのものは、もとより実体がないから空である。空だから、生まれるということもなく、滅するということもない。生まれながらに汚れているということもなく、生まれながらに淨らかであるということもない。増すこともなく減ることもなく、欠けることもなく、足りぬということもない。

 この世に存在(色)するすべてのものは、もとより実体がない空だから、本来無一物です。空だからもとより不垢不淨、すなわち清淨で不汚染です。この世に存在(色)するすべてのものは、もとより実体がない空だから、ことごとくが、ありのまま、あるがままを露呈して存在(色)しています。般若心経ではこのことを色即是空・空即是色とあらわしています。

 ところが人間の尺度では、ありのまま、あるがままを露呈している実相をそのままに受け取れないのです。好きだ嫌いだとか、優れているとか劣っているとか、上だとか下だとか、そういう受けとめ方をしてしまいます。明があれば暗がある、これはあたりまえのことですが、分別心で受けとめるから、ことごとくを見誤ってしまいます。こうした人間の尺度を捨て、分別心を払拭すれば、現前の実相と自己との分け隔てはなくなります。

 ありのまま、あるがままを露呈して存在している、そのことごとくの存在を仏という。その本性は自性清淨心すなわち、仏心・仏性です。現前の実相と我見との分け隔てをなくして、この世の実相を自己の上に実現する。このことをお釈迦樣は、「我と大地と有情と、同時にに現成す、山川草木悉有仏性」といわれたのです。それが悩み苦しみを離れて、寂静の境地を得ることだと教えられました。
「初心の弁道すなわち本証の全体なり」(弁道話)

 一切衆生悉有仏性 (いつさいしゆじようしつうぶつしよう)ですから、戒とは、なんびとにもそなわっているところの仏性・仏心のことで、自性清淨心です。したがって自性清淨心に違わない生き方をすることを戒を保つといいます。戒を保つとは、この戒を自分の上に実現する生き方をするということですから、戒を保つという生き方がなされておれば悉皆成仏するのです。

 戒を保つ生き方が本来の自己のありようで、それが自然な生き方だということです。けれども戒が保たれていなければ、不自然な生き方になり、自ずと悩み苦しむことになる。どのような心構えでこの戒を受け、そして、その戒をどう保つかということは、出家の者はもちろんのこと、在家であっても、とても重要なことです。

 修証一如といいますが、証(さとり)はそのまま修行であり、修行あるところに証がある。修行は証(さとり)の全体であり、証は修行の全体です。それで「初心でする坐禅弁道がそのまま本来成仏の実証の全体である」と道元禅師はいわれました。坐禅は修証(修行と証)であるから、すでに証は修行と同時にある。だから修行にはじめはなく終わりもない。

 戒を保つということは、修行すなわち日々の生き方であり、戒が保たれておれば自ずと安穏な心(証)を失うことはないから、悩み苦しむことなく生きられる。
 戒を保つということは日常の心得・生き方そのものです。道元禅師のお言葉に「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて」とありますが、心身ともに没入させていくことが、戒法をいただくことであり、これを帰依するといいます。
仏法僧の三法をそしり不信の念を起すことなかるべし

 仏とは目覚めた人、真理を悟った人のことで、釈迦牟尼仏をさします。また、仏とは無上等正覺(このうえなきさとり)で智惠と慈悲行の完成ということですから、仏とはこの智惠と慈悲の両面がそなわった人のことをいいます。仏は法(真理)を悟り、法(教え)を説くものであり、法の体現者です。法は保つという意味もあり、変わらない真理です。僧は和合衆のことで、仏陀の教に生きるもののことです。

 仏法僧とは仏教を構成する仏と法と僧の三宝のことです。仏法とは仏陀ががさとられたものであり、仏陀の教であり、仏陀になる教でもあります。
 帰依は仏宝僧の三宝をいただくことからはじまります。そしてこの仏法僧の三宝の功徳がいきわたっているのが、三聚淨戒と十重禁戒です。それで仏法僧の三宝に帰依し、三聚淨戒と十重禁戒と、この十六条の戒法をいただくことになります。

 「この帰依仏法僧の功徳、かならず感応道交するとき成就するなり」と修証義にあります。さとりをもとめるこころである智惠と、他を救おうとするこころの慈悲行が一つになることを、感応道交すると道元禅師はいわれました。
 智惠という戒を保つ日常の生き方によって、悩み苦しみのない生き方ができる。そして、この世は共生きの世界ですから自己中心の生き方から、他を幸せにする慈悲行の願いに生きることが己の幸せに通じます。

 人は生まれながらに仏性をもつものであるから、仏心を自覚する生き方をすること。そして他を救い幸せを分かち合うことができれば、日々安らかな寂静の境地を持続することができる。
 仏法僧の三宝を(謗)そしることなく、仏法僧の三宝に帰依する生き方が修行であり、仏法僧の三宝に帰依するところに証(さとり)がある。修行と証とは日常生活のすべてです。修行の日常がすなわち証の日常であるから日々是好日です。日常の修行はそのままが証であるから、平常心是道といいます。

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