2018年2月1日 第229話
             
心身一如

      もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、
     三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、
     尽虚空ことごとくさとりとなる。 正法眼蔵・弁道話


ストレスや生活習慣の乱れが心身の不調をまねく

 人間関係の悩みをかかえている人がとても多く、人間関係からくるプレシャーなどから、不安、いらだち、緊張などのストレスにより、心や身体の不調を感じるようになります。夜更かしなどによる生活リズムの乱れや深酒や喫煙、不規則な食事などによる自律神経のバランスの乱れも、心や身体の不調につながります。人により症状は様々ですが、病院で検査をしても臓器や器官に病的な変化が認められないということがあるようです。

 ストレスなどの心因が影響して、特定の臓器や器官に異常が現れたり、いらいらや憂鬱感や不安感、集中力や記憶力の低下、倦怠感、食欲不振、不眠などと、全身症状として現れることがあります。ところがこういう症状の中にうつ病や神経症が隠れていることがあるので注意しなければなりません。

 日常の鬱憤が解消できなくて、愚痴を肴に酒を飲んで憂さを晴らそうとします。ところが、ついつい飲み過ぎてしまいます。はじめ人は酒を飲む、そのうち酒が酒を飲むようになり、そして酒が人を飲むほどに酔いつぶれてしまうと、正気をなくしてしまいます。
 カロリーの取り過ぎに注意しなければと、自分に言い聞かせて、少しは心掛けようとするのですが、目の前に美味しいお菓子があると、食事の後であってもすぐ手が出て食べてしまいます。これも私たちの陥りやすい危険な日常です。

 人は自然にふるまえればよいのですが、人間関係を離れることができないから、人間関係に悩んで自己を見失い、そのうち苦悩の深穴に転落してしまいます。そこから抜け出せればよろしいのですが、深刻な心身不調を招いてしまうことがあります。そして生活習慣が乱れてくると、戻ることができないほどの深刻なダメージを受けてしまいます。

自律神経の働きによって生かされている

 人は、美味しいものを食べると満足しますが、食べ終えて、美味しかったと感じているだけで、自分の身体のことなど何も考えていません。
 少し硬いものであったり、脂っこいものだと消化によくないから、胃に負担がかかります。また夜更かしして空腹から何かを食べてしまう、これも身体によくない。飲み過ぎも食べ過ぎも、自分の欲からそうなってしまいます。けれども、自分の胃にごめんなさいと謝ることなどしません。

 自分の胃にしっかり消化してくださいとお願いする気持ちがあれば、暴飲暴食などしないでしょう。消化したものを腸が栄養分を吸収して、いらないものを排泄してくれますが、当のご本人は全くそのことを思いやることなどありません。しっかり消化してくれと頼まれることもないけれど、お体様は自らの働きとして消化の勤めを果たしてくれます。

 意識しなくても、肺が呼吸をして、酸素をとりこみ、炭酸ガスを排出してくれます。さあこれから全力疾走するからとか、急な坂道を登るにつけても、心臓さんしっかり動いてくれよと頼まずとも、心臓はその動きを強めて歩行を助けてくれます。ご主人様の指示がなくとも、お体様は自律神経の働きによって、胃も腸も、肺も、心臓も、すべての臓器を働かせているのです。

 人体は煩悩の入れものです。だから、煩悩が尽きることなくどんどん出てくる。一つの煩悩を鎮めても、また次の煩悩が出てくる。欲の尽きることがありません。貪・瞋・癡(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒がさまざまな欲を誘って煩悩の炎を盛んにしてしまうのです。そして欲望が誘い水となって、さらなるストレスや生活習慣の乱れをつくり出してしまいます。

坐禅は自然体であり、平常心です

 お釈迦さまは菩提樹の下で坐禅をされていた時に、天空に輝く星々も、地上の山川草木も、ありのままに、そのままに、それぞれのすがたが露わになっているではないかということに気づかれた。このありのまま、あからさまに露わであることが、真実真理そのものであることを悟られたのです。

 ことごとくが露わであり、かくされているものなどなにもない。これがこの世であり、自己も生きとし生けるものも、すべてが露わであるから真実真理です。この真実真理の自己のことを道元禅師は真実人体といわれました。そして、山河大地、草木も瓦礫も、ことごとくが真実真理の現れであるから、同じく真実人体です。

 「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。」
                         (正法眼蔵弁道話)
 たとえ一時の坐禅であっても、心・口・意のすべての働きを仏におまかせして、正しい坐禅をするときには、自己も全世界も、ことごとくがさとりとなる。このように道元禅師は正法眼蔵弁道話でお示しです。

 坐禅は自己を束縛する姿勢であると思いがちですが、そうではありません。道元禅師は心身脱落といわれたが、身も心も全体がすっぽりと抜け落ちるから、心身一如で、坐禅は自己を解放した自然体であり、平常心(仏心・真実・不染汚の心)そのものということです。
 身と呼吸と心が調っているとき、自律神経の働きは順調です。坐禅を修行していることが、そのまま証(さとり)の現れであり、それを真実人体といいます。

健康は、自律神経が順調に働くのを維持することです

 自分の意思によらずとも、自律神経の働きによって、胃も腸も、肺も、心臓も、すべての臓器が四六時中休むことなく動いています。だから、生かされているのだということに気づかなければいけないのでしょう。
 お体様が自ずからのはたらきとして自律神経により臓器を働かしてくれます。だから健康に留意して、自律神経が失調しないように、交感神経と副交感神経がバランスよく順調に働く状況を維持しなければなりません。

 自律神経が順調に働くもっとも好ましい状態を、日常に保つことが大切です。それで現代人に、日常修行として一時の坐禅をおすすめします。背筋を伸ばし前にも後ろにも右にも左にも傾かず姿勢を正して、身体を調えます。そして出入の息をおだやかにして、呼吸を調えます。身体も呼吸も調えば、眼を半眼にして念想観や心意識をはたらかさず、心を調えます。
 眼を半眼に開くことで瞑想することなく、自己を見失うことがない。自己を見失うことがないから、心意識の運転が鎮まれば、分別心や妄想もおこらず、心が自ずから調うから、自律神経が順調に働く環境が調います。自律神経の働きが順調であれば、人体の健康が保たれます。心身一如であるから、心身ともに健康が保持されるのです。

 生活ぶりによってもちがうでしょうが、日常とは、悩み苦しむ迷いの自己と、悩みもなく苦しみもないおだやかな自己とのせめぎ合いの日々です。人は自然体であれば、どんなストレスであっても、柳に風のごとくやり過ごせて、日々生きていけるのですが、ことさらに執着するから、自己をゆがんだものにしてしまう。素直な自己であればよいのに、人間関係でかまえたり、過ぎたことにこだわったりしますが、こういうことがいけません。

 坐禅は自己のあらゆる執着心を放下して、束縛からも解放された姿勢を保つことから、自律神経の働においては最も好ましい状態といえるでしょう。それで日常修行として、一時の坐禅修行をおすすめします。
 とかく人は日常において自然体で、平常心でおれないから、自分自身で苦しむ原因をつくりだしてしまいます。心身一如だから、いかなる時も自然体で、平常心でありたいものです。

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