2016年7月1日 第210話
             
風鈴

     先師古仏云く、渾身、口に似て虚空に掛かり、
     東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず、
     滴丁東了滴丁東   正法眼蔵・摩訶般若波羅密
      

変わらざることへのこだわり

 この世に変わらないというものがあるのでしょうか。私たちの周りを見渡しても、変わりゆくものばかりで、変わらないものなど見当たりません。草木はじめ、あらゆる生きものの躍動するありさまは、季節とともに変わっていく。何十年ぶりにふるさとに帰って、ふるさとの山や川を眺めて、ふるさとの景色は変わらないからありがたいと感じる人もあるでしょうが、それは人間の時計によるからであって、山も川も刻々とその姿は変わり続けています。

 人の思いとは気ままなもので、変わってほしいと思うこともあれば、変わらないでいつまでも現状のままであってほしいと願うこともある。ところが天候が変化するように、晴れの日が続いてほしいと思っても雨が降る、一雨ほしいと願っても降らぬ。降れば豪雨であったり、先の読めないのがこの世であり、ことごとくが変わりゆくものばかりです。

 変わりゆくとは、時の流れでもあり、ものの存在もそうです。宇宙の起源がビックバーンだといわれていますが、その宇宙は膨張し続けている。そして、そのすさまじい早さこそ、万物が変わりゆくことの根本です。2500年前にお釈迦様は明けの明星の輝きとともに、この事実を諸行は無常なりと悟られた。

 光陰は矢の如しで、人の一生などあっという間です。のんべんだらりと日々を過ごしていたら、一月や一年はすぐに経ってしまう。いつまでも若くありたいと願っても、老いはさけられません。それで光陰の速やかなること、すべての物が変わりゆくものであるという無常を観じるとき、人は生き方を変えなければと思うようになります。

こわれなきものへのこだわり

 また、大切な人や親しい人が亡くなった時や、震災や風水害に遭ったとき、あるいはたとえ自分が遭わなくとも、そういう事実に直面したとき、危うく難を逃れることができたとき、健康を損ねる恐れありと認識したとき、人は自分の生き方を変えなければと思うようになる。

 かたちあるものはことごとくがこわれていくものです。いかなるものも始まりがあり終わりがある。生まれたものは必ず死んでいく。目に見えるものから、見えないものまで、ことごとくが生滅するものばかりです。生滅する命については遺伝子がその生き死にに関わり、命の受け継ぎに重大なはたらきをしていますが、身は滅しても魂は常住不変であるということはありえません。

 生あるものは必ず滅する。すべてが生滅するものであり、例外はありません。永遠に存在すると思える宇宙も、始まりがあれば、終わりがあるといわれています。それは人間の認識を超える時間でしょうが、生滅する宇宙の星々も同じことで、かたちあるものはこわれていくということです。かたちあるものに執着しても、所詮それは壊れるものであり、滅するからことごとくが本来は空であり、実体の無きものである。二千五百年前にお釈迦様はこの事実を諸法は無我なりと悟られた。

 人としてこの世に生を受けて今ここに生きているこの身も心も、生まれる前は実体もなく空すなはち無であった。そして死んでしまえばまた空すなはち無に帰す。空から空への一瞬に生きている、それが人生であり、まさに夢の如しです。だから、もともとこだわるなにものもないのに、なにごとにもこだわってしまうから苦しくなる。生老病死のみならず、お金に物に、名誉に、人間関係に、ことごとくに執着して、人は悩み苦しんでいます。

過ぎ去りしことへのこだわり

 生きていく上で過去の経験や得た知識はその人にとって貴重な財産です。ところが過ぎ去ったことにこだわり続ける人があります。過去に起こったことが、今に生かせればそれはよい知識経験となるのですが、悔やんだり、思い込みがいけません、それは生き方を消極的にしてしまいます。

 不安心があったり、前向きになれないと、自分が積極的に行動できないことの理由ずけを考えてしまいます。それは、自分は過去にこういう体験をしたから、それが原因で消極的になってしまうとか、それがトラウマとなり前に進めない、などと言い訳をしてしまう。かならずしも過ぎ去ったことが、今、その人の判断や行動に決定的な影響力を与えるとは言い切れないのに、自分自身が直面する課題に向き合えないことの理由ずけにしてしまうのです。

 人の体は常に古い細胞が滅して、新しい細胞が生まれています。新しい私にどんどん生まれ変わっていくのだから、思考も新しい私に変えていくべきです。刻々と細胞がリフレッシュされて体が新しい私に変わっていくにつれ、頭での認識が新しい私でなければアンバランスが生じる。このギャップが悩みの姿です。身も心も常にリフレッシュしていることを認識しておきたい。

 過去にこだわると今がない、今も過去であり、これから先、未来も過去になってしまう。心身ともに常にリフレッシュしているから、ことさらに過ぎ去ったことにこだわるべきでない。今といっても、それは一瞬で、今がすぐに過去になってしまうから、今というこの時を生きるべし、ということです。過去にこだわらず過去を引きずらない、これが生き方上手ということでしょう。

直心、是れ道場(悟りの場)

 エアコンなどの空調設備がない時代では、日本の暑い夏を過ごすために、葦簀(よしず)で日差しを遮ったり、打ち水をして涼風を起こしたり、さまざまな生活の知恵がありました。軒先に風鈴を吊して、音で涼感を楽しむというのは、究極の納涼といえるでしょう。

 「先師古仏云く、渾身、口に似て虚空に掛かり、東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東」 これは道元禅師の先師である如浄禅師の詩です。
 風鈴は、からだ全体が般若であり、虚空にあって東西南北いずれから吹いてこようとかまわない、自だとか他だとか、なにごとにもとらわれることなく、ちりんちりん、と般若を談じている。これはあたかも、仏祖から仏祖へと伝わってきた般若の説法そのものである。この詩に道元禅師はいたく感涙されたそうです。

 般若とは智慧という意味です。その智慧は空であり、空とは完全な無執着、いっさいのとらわれを離れることです。色即是空、空即是色と般若心経にありますが、色とは形あるもので、空とはその形あるものは結局空しということです。また般若波羅蜜多は諸法(真理)である。諸法とはあらゆる存在であり、それはことごとくが空であるから、不生不滅であり、不垢不浄、不増不減であると般若心経に説かれています。

 直心とは、あらゆるものに対して執着することのない自在な心ですが、迷える人はなにごとにも執着してしまう。直心を行ずるとは、あらゆるものに対して執着することのない自在な心で、こだわりなき生き方をすることです。あたかも水が何の滞りもなく自由自在に通じて流れるよいうな、そのような心のあり方をいいます。
 風鈴は無常の虚空にあって無我の音を奏でています。般若波羅密の具体的な姿は直心を行ずることで、日常が是れ道場(悟りの場)であるから、日常に直心を行じる、すなはち、風鈴の如くにこだわらない生き方をすべしということでしょう。

 

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