2016年6月1日 第209話
             
ありのままに

     ただし、心を以て、はかることなかれ、ことばをもつて、
    いふことなかれ。ただわが身をも心をも放ち忘れて、
    仏の家に投げ入れて、仏のかたよりおこなはれて、
    これに従ひもてゆくとき、力をもいれず、
    こころをも費やさずして、生死をはなれ仏となる。
    たれの人か、こころにとどこほるべき。  正法眼蔵・生死
      

人間関係には摩擦がつきものです

 他の人と共には生きづらいからと、絶海の孤島や深山幽谷で自給自足して一人で生きていこうとしても、それは不可能に近い。地域社会にあって、隔絶した生活をしょうとしても、それもできない。人は他の人との関係において、生かし合い生かされ合いしながら生きていけるのでしょう。それで生きていくのには他人とのつながりの関係が前提となります。その人と人との関係のことが人間関係です。

 この世に悩み苦しみのない人などいない。だれでも何らかの悩み苦しみをもちながら生きています。その悩みで最も多いのが人間関係の悩みでしょう。人間関係は親子、兄弟姉妹、夫婦など家族であったり、親戚、ご近所、職場、学校、取引先、友達、グループなどさまざまです。そして利害関係があるとか、ないとか、少数か多数であるか、いろいろです。いずれであっても人は他と関係しながら生活しています。

 人間関係とは自と他、すなはち自分でない他の人との関係です。人間関係がよかれと願うけれど、人はだれでも自分が大事だから自分を大切に思い行動しょうとするので、人と人の間でさまざまな摩擦が生じてしまいます。人間関係の悩みはだれにでもありますが、深刻な状態に陥ってしまうことがあります。

 人間関係の悩みは人が生きていく上で生じることですから、生きているかぎり消えて無くなることはない。人間関係での悩みがない生き方ができれば、自分にとっても、また関係する人にとっても幸せなことですから、人間関係を良くしておきたいものです。それにはどうすべきか、それは個々人の考え方や行動によるところということでしょう。

我といふ小さきものを捨てて見よ、三千世界我が身なりける

 人は自己防衛のためか、自己中心の行動をとりがちで、忘己利他の心で寛容な生き方ができないようです。それで見栄張りや虚栄心で行動したり、他人の目線や自己への注目や関心の度合いを気にします。けれども、だれでも自分が大切だから自己中心で他のことまでかまっていられないから、自分が気にするほどに、他人からの目線は注がれていないのに、他をことさらに気にしてしまう。また過去の体験が自分をそうさせているとの思い込みもあるようです。それで、恐怖や不安を感じて、おびえたり、行動が萎縮して引きこもりや精神疾患につながることがある。

 他の人が自分との人間関係を壊している、それで悩まざるをえないのだと、人間関係がうまくいかない理由を他の人を原因としたがるようです。しかし、人間関係がうまくいかない理由を他の人に原因があるといい続けるかぎり、人間関係がおだやかになることはない。人が生きていくところ人間関係が存在し、人は利己的であるから摩擦は絶えないのです。

 人間という意味は広辞苑によると、「世の中」と最初の意味ずけがされています。人間という言葉の意味がどうして世の中であるのかを、よく考えてみるべきでしょう。人間とは人と人が関わりながら生きているのであり、さらには世の中は人のみならず生きとし生けるもの、山も川も一切が関わりをもち、さまざまなものが存在しているところ、それが世の中である。もっと視野を広げれば、世の中とは宇宙をさすから、人はそれぞれ宇宙に生かされているということでしょう。だから、了見の狭い自己中心の心をもっと広くすれば人間関係の摩擦などごく小さなものであることがわかる。

 京都の天龍寺の開山である夢窓国師は「我といふ小さきものを捨てて見よ、三千世界我が身なりける」と、言われた。人間関係で摩擦が起こっても、しょせん自と他の間に生じるちっぽけなことで、たわいのないものだから、悩み苦しむに値しない。魚は水にあって魚の如し、鳥は空を飛んで鳥の如しです。本当の自分をつかみ損ねないことです。

面白くない世の中を面白く、過ごすは人の心なりけり
 
 不味いものばかり食べ慣れていると美味しいがわかるが、美味いものを食べていないと不味いというものはない。水について、人であれば、咽が渇いていると一杯の水がとても美味しい、ところが、水に泳ぐ魚からすると、水というものは住むところであって、飲み水でないから、水の美味しさの話は論外です。

 大きいとか小さいとか、美味しいとか不味いとか、好きだ嫌いだ、幸せだ不幸だと、私たちは、日々にそういうことばかり思いめぐらして際限がありません。結局、何が良くて何が悪いのか、わからなくなってしまいます。つまらない自己の嫉妬心がそう思わせているのであって、こだわりの思いを捨てれば、いずれでもよいことです。

 病気持ちの人は病気とうまくつきあう、それが病気を治癒し、苦痛をやわらげる方法でしょう。自分が貧乏だと思えば貧乏なりにつつましく生きていると、金持ちは金持ちなりに苦労があるが、金持ちの苦しさを識らずして貧乏だとも思わずに気楽に生きられる。不器用なものは不器用なりにできることがある、それは器用なものにはとうていできないことです。喧嘩しそうになったら合掌したらよい。そうすると喧嘩にならない、両方がしなくても、一方のものが合掌しただけで、喧嘩相手にならぬものです。

 好き嫌いがあればそれが迷いなり、迷うから良し悪しに見える。人間関係にこだわり、悩み苦しんでいるのも我執による分別妄想によるからです。分別妄想により、心が心に騙される、自分が自分に騙されているのです。幕末の長州藩士であった高杉晋作は面白くない世の中を面白く、過ごすは人の心なりけりと言われた。人はことさらに人間関係にこだわり摩擦度を高めてしまうようだから、人間関係にこだわらなければ、人間関係の悩みは生じないということです。だから自己の考え方を変えれば、人間関係はおのずから良く保てるはずです。

我執という、つっぱり根性をほぐせば、ありのままになれる

 道元禅師は正法眼蔵・生死の巻きにおいて、自己の観念や感情でもって推量したり、いたずらに言葉で語ることもよろしくない。自己の思い込みとか経験なども忘れて、力むことなく無心になれば、だれにでも真実真理は呼びかけてくる。自己の心にこだわらなければ、おのずから真実真理に突き動かされて寂静の境地に入ることができると説かれた。

 仏性というのは無限の過去から無限の未来にわたって、少しも変化しない、たったひとつの真理のことです。この身このまま、ありのままの本来の自己が仏性です。悩みというものは自分で勝手に考えるところからうまれる。自分で勝手に考えるから難しくなり、自分の思うように考えるから間違えてしまう。だからこの真理(仏性)に任せることができれば、煩悩や苦悩に振り回されることもない。我執という、つっぱり根性をほぐした、ありのままが坐禅であり、寂静の境地です。

 人間関係が悩み苦しみの原因となることなどないのに、自分自身の思い込みで悩み苦しみの原因に仕立てあげてしまうところに根本的な問題がある。人間関係の悩み苦しみからのがれる方法とは、まずこのことに気づくことです。煩悩や苦悩に振り回されるということは、欲の入れものである自分自身をつかみきれずに右往左往して、我執に汚染した状態にあるからです。自我による観念に染汚する以前の私は仏性そのまま、本来の自己です。したがって仏性そのままの本来の自己に立ち帰れば、煩悩や苦悩に振り回されることもなく、人間関係で悩み苦しむこともない。

 鬱憤不満で、腑が煮えくりかえるほどに激怒しかけることがあっても、柳に風の如く軽く受けとめることができればよいのです。それには背筋伸ばし肩肘張らずゆっくりと吐く呼吸法を、常に自己訓練しておくことで、さらりとやり過ごせる。生き方の基本軸がぶれないように、自己を見失わず、足は大地を離れず、宇宙の気を吸い、宇宙の気を吐く、そのように生きていくのが我々の生活の態度であり、この生活の態度が禅です。煩悩や苦悩に満ち溢れた現実の自己を認めて、日常の生活において、坐るという寂静の一時をもちたものです。

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