| 心の月 | |||||
釈迦牟尼仏言、 「仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月」。 釈迦牟尼仏のたまわく、「仏の真法身は、虚空のごとく、 物に応じて形を現わす、水中の月の如し」 いわゆる「如水中月」の「如々」は水月なるべし。 水如、月如、如中、中如なるべし、 「相似」を如と道取するにあらず、如は是なり。 正法眼蔵・都機 |
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寒い冬の澄み切った大空に輝く月はとても美しい。二つのものを見比べて、「月とすっぽん」といいます。空に輝く美しい月と、泥池の中のすっぽんとは、形が似ているからといっても、その値打ちに天と地ほどの差がある、などと会話することがあります。このように人は月に日常的にも関心が深い。花鳥風月とあらわされ、季節の移ろいの美しさとして、月をめでます。 夜空に輝く月は日々その姿を変え、季節によっても異なる表情を見せる。それで古くから私たちの祖先は、そんな月の細やかな変化を敏感に感じ取り、美しい名前をつけて、月をめでてきました。また、月の満ち欠けは農業や漁業においても密接な関わりがあります。 月の満ち欠けの呼び方として、月が見えない状態を新月といい、満月の半分の状態を上弦の月という。月が完全に見える状態を満月といい、満月から半分欠けた状態を下弦の月という。そして弓の形をした月を弓張り月とか、 三日月が眉のような細い形をしているため、まゆづきと、また三日月の別名を若月と書いてみかづきともいいます。 月は毎日約50分遅れて昇り、満ち欠けをする。それで、十三夜月、小望月、十五夜の月、十六夜月、立待月、居待月、寝待月、などと、月の見え方により名称ずけられています。また、一月を睦月、二月を如月などと、旧暦では月の和風月名が使用された。 |
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月と人
月の引力は地球の海に潮の満ち引きを起こします。それで月と生物には密接な関係がある。最初の生命は海で誕生し、進化とともに陸にも生息するようになりました。それで海に生息する生き物はむろんのこと、陸上に生息する生き物であっても、月の満ち欠けが生命の繁殖や生理に影響をあたえる。高度に進化した人間の女性の生理はその顕著な例です。 人類文明において、太陽を中心とする「太陽暦」と、月の満ち欠けを一月とした「太陰暦」が生まれた。現在の日本では太陽暦が使われていますが、月の満ち欠けをもとに、季節をあらわす太陽の動きを加味した「太陰太陽暦」も明治以前はひろく使われていました。 「太陰太陽暦」を旧暦といい、農作業、漁業、年中行事や風習においても、和歌や短歌、俳句、時候のあいさつ用語においても、如月、弥生、などの和風月名とともに現在でも使われています。またイスラム世界では月の満ち欠けを基準とする太陰暦を用いている。 月は詩歌において、古来より日本文学の重要なテーマであった。満ち欠けする月は人生の移ろいの象徴であり、自然の美しさをとらえたものとして俳句、童謡、詩、短歌、楽曲、などに月の詩歌が多い。 古くは阿倍仲麻呂が「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と、月を詠んだ。俳句にても「名月や池をめぐりてよもすがら」(松尾芭蕉)、「菜の花や月は東に日は西に」(与謝蕪村)、童謡の「おぼろ月」など、多くの詩歌があり、昔話としては竹取物語「かぐや姫」があります。 中国や日本には満月を楽しむ月見、あるいは観月の慣習があります。とりわけ旧暦の8月15日から16日の夜、八月十五夜と、旧暦9月13日から14日の夜、九月十三夜の月を鑑賞する。十五夜にはススキや団子、旬の収穫物を供えます。中秋の名月、芋名月などと呼んで月見を楽しみます。季節に関わらないが、卵黄を月に見立てて、月見そば、月見うどんと称し食されています。 |
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釈迦牟尼仏言、 「仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月」。 いわゆる「如水中月」の「如々」は水月なるべし。水如、月如、 如中、中如なるべし、「相似」を如と道取するにあらず、如は 是なり。(正法眼蔵・都機) 釈迦牟尼仏が言われた。「仏の真の法身は、あたかも虚空のようなものであり、物に応じて形を現わすことは、水中の月の如くである」と。 如水中月の如々、つまり、一つ一つの真実は水であり、月であり、中である。似ていることを「如」というのでなく、「如」は「是」である。道元禅師は正法眼蔵の都機に、このようにのべておられる。「都機」とは「月」の万葉仮名です。 月は円満・完全であり、真実そのもののすがたである。仏の法身は虚空であり、物に応じて形を現わすことは水中の月のようである。水中の月も、月に照らされている自己も形を現わした仏の法身、すなわち真実人体であり、本来の面目は、月と同じ円満・完全のすがたであると説かれている。 道元禅師には月を詠った和歌が多くあり、傘松道詠の名で広く読まれています。 世の無常を詠まれた 「世中は 何にたとへん 水鳥の はしふる露に やどる月影」 坐禅を詠まれた 「濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる」 本来の面目を詠まれた 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」 観月のこころを詠まれた 「大空に 心の月を ながむるも 闇に迷ひて 色にめでけり」 ご入滅の年に詠まれた 「又見んと 思ひし時の 秋だにも 今夜の月に ねられやはする」 仏の真の法身は、虚空そのものである。「仏真法身」は物に応じて形を現わすゆえに、大地全体、世界全体、万法全体、現象全体であり、それ自身虚空である。いずれもが物に応じて形を現わしたものであり、円満無欠の心の月そのものである。 月は心なり、心とは仏心・法・真理なり。心とは仏性なり、天空の月であり、水中の月である。それは宇宙、太陽、地球であり、さまざまな形で現象している山川草木、あらゆる生命である。それらはことごとく仏性のあらわれであり、いずれもが物に応じて形を現わしたものである。 円満無欠の心の月は仏の真の法身であり、自己も仏の真の法身であり心の月である。したがって、その輝きを保持することが、生きるということでしょう。 |
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| 二つの月 月と人間は、太陽とともに密な関係にあります。生命はその誕生も進化も太陽と月とによるからです。とりわけ月と人間は、つながりが深い。月は地球に近いことから、50年前に人類は足を踏み入れて、未知の領域を直接調べている。爾来、月の探査は継続しており、数年以内に月に住むという計画が進行している。真理の輝きとあがめるところに人が住むようになれば、人類はどのように心変わりするであろうか。 仏法とはお釈迦様がさとられたこの世の真理です。真理は宇宙そのものです。そうであるから月の光は真理の輝きなり。月が輝くのは太陽に照らされているから、そして夜空の月の輝きに、地球が照らされる。月の輝きにより、私たちも同じく照らされている。我欲のかたまりである人間ですが、別け隔てなく太陽にも、月にも照らされる。人体も、あらゆる生命も、いずれもが星の成分から成り立っている分子によりつくられているから、生命体は小宇宙であり、それが大宇宙に照らされている。 あるとき瑩山禅師が若き峨山禅師に「月が二つあることを知っているか」と尋ねた。その時峨山さんは答えられなかったのです。修行にはげまれていたある日のことです、瑩山禅師の指を鳴らす音を聞いたとき、その真意を悟られた。二つの月とは、天空に輝く月と、そして自らが宿しているところの仏心である心の月と、月が二つあることに気づかれたのです。 福井県大野市にある宝慶寺には、道元禅師が月を眺めておられる「月見の像」という画像がありますが、意味するところは同じく二つの月ということです。 都機とは万葉仮名で月のことです。円満で無欠の仏心そのものです。虚空とは何も遮ることなく、すべての存在を包み込む無限の空間であり無限の真理の世界です。仏心とは虚空の如くであり、そのままに真実です。一切の世界、いまここにあるすべてのものごとが、そのまま仏の真実のすがたであるから、一心一切法、一切法一心です。 人もあらゆる生命も日月に照らされて生まれ、今生きて、死んでゆく。すべてが宇宙であり、生命体もあらゆる存在も大宇宙の中の小宇宙です。自己は輝く月である。ですから、自己の心の月が陰ることなく、その輝きをたもつことを、生き方の基本とすべきであると、道元禅師は説かれた。 月と地球は重力で存在しあっている。戦争、犯罪という愚行、情報、経済など、人間のあらゆる行動を、天空の月はあまねく照らしている。大波の海も、さざ波の海も、別け隔てなく照らしている。それが無分別智の心の月でしょう。 |
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