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秋風 | ||||
ただ生死すなはち涅槃とこころえて、 生死としていとふべきもなく、 涅槃としてねがふべきもなし、 このときはじめて、生死をはなるる分あり。 正法眼蔵・生死 |
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秋風索漠 立秋が過ぎると、時折吹く涼風にどことなく秋のおとずれを感じます。二十四節気の一つ立秋は暦の上では秋になる日ですが、8月8日頃は残暑というよりも、今年は猛暑であった。9月も半ばを過ぎて、秋彼岸になればススキの穂が風になびき、萩が咲き、稲穂が垂れて、涼しくなります。秋の深まりとともに風の吹き方も変化し、晩秋になれば吹く風に冷気を感じます。 松尾芭蕉の句に 「石山の石より白し秋の風 」 とあります。秋に吹く風は、秋の色が白にあたるので「白風」ともいう。 10月は秋凉爽快です。木々の葉が黄ばみを増し、木犀の香るころになると、朝夕は肌寒さを感じるようになる。「秋」を「飽き」に掛けて、男女間の愛情が冷めることのたとえとして、秋風が立つといいますが、仲がよかった男女が、関係にいや気がさしてひびが入ることをさします。秋風は爽快であるけれど、もの悲しさや寂しさをさそうようです。 秋風が吹いて寂しさを感じることを、秋風索漠といいますが、勢いがおとろえて、おちぶれていくさまのことで、老い込むというのはそういうことでしょう。 なぜ老いは寂しいのでしょうか、それはやがて死がおとずれる前ぶれだと思うからでしょう。そして死は恐ろしいと感じます、なぜ恐ろしいのでしょうか。それは未知のことだからです。また死を恐れるのは、この世に未練があるからでしょう。もっと楽しくおもしろく生きたい、そういう思いがあるからです。 「生者必滅、会者定離(えしゃじょうり)」とは、生ある者は必ず死滅し、出会う者はいつか必ず別れがくる、この世は無常です。無常とは変わりつづけるという意味です。「無常の風は時を選ばず」、無常の風とは人の死のことで、吹く風が花を散らすように、有為転変のこの世では、死はいつやってくるかわかりません。 |
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体露金風 寒山詩に八風吹不動(はっぷうふけどもどうぜず)とあります。その八風とは、得をする、損をする、陰口をいう、ほめる、こよなく讃える、悪口をいう、苦しみを与える、楽しみを与えるです。誰もが心を揺り動かされることばかりです。人は自己本来の生命活動に従順であれば八風不動ですが、貪瞋癡(とん・じん・ち)すなわち三毒の煩悩を捨てきれないから八風に揺り動かされて、自ら苦しんでしまうのです。 「掃ば散り 払えばまたも散り積もる 人の心も庭の落ち葉も」、「掃けば散る 掃かねば積もる 落ち葉かな 庭の紅葉も 心の塵も」と古歌にありますが、落ち葉を掃く、掃けども掃けども散る落ち葉、これが秋の風情というものでしょう。払っても、すぐに積もるのが心の塵です、生きているから積もるのです、積もればまた払えばよい、掃き払うことが、八風吹不動ということでしょう。 ある修行僧が雲門禅師に、「樹凋(しぼ)み葉落つる時如何」と問うた。青々と繁っていた樹々も秋になれば紅葉して、樹はしぼみ、晩秋はもの寂しい景色となってしまった。このありさまをどのように受けとめればよいのかと問うたのです。 その僧の問いに雲門禅師は「体露金風」と答えた。体露とはすべてのことがそのままに現れれている、金風とは秋風のことです。樹々は美しく紅葉して錦のごとし、黄金の大地をつくりだしている、この現前の自然そのものだということです。 樹凋葉落の時節は人生にたとえれば、あたかも老境の輝きであろうか。 人は年を重ねると肉体は衰えていくけれど、人間として悪いクセや個性などのアクもぬけて老境の輝き、黄金の風格があらわれてくるというものです。 櫓を漕ぐ船頭にさわやかな秋の風が吹く、「秋風や生き永らへて艪を漕げる」 俳人の長谷川櫂は老練の輝をこのように詠んだ。. |
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清風明月 加齢とともに、今まで見向きもしなかった路傍の草花の鮮やかさに、その美しさに見とれることがある。雨上がりの木々はみずみずしく輝き、山の端の青空に飛ぶ雲はいっそう白い。潮騒のざわめきに命の鼓動を重ねたり、海雲の彼方に永劫の時の流れを想ったりすることもあるでしょう。蜜蜂や蝶の飛び交う姿に短い命の躍動を感じたり、蜘蛛の巣に捕らえられた姿を哀れみ、命の連鎖を思うこともある。清風明月といいますが、澄みきった秋の夜空に皎々と輝く月に我を忘れることがある。これらことごとくは自らの死を重ねての感性の高まりによるのかもしれません。 老化とは生殖機能を失った後に生じるさまざまな衰退現象のことをいうのでしょう。だから人それぞれの生き様も変わってくるでしょう。老いても色気を失わない人もあれば、筋力の衰えが年相応でない人もある。視野が広い人や、く独創的な発想をされる人、感性豊かな人に出会うことがあります。人間の価値はそれぞれ他の人と違う、それは各々の感性の違いによるのでしょう。だからいくつになっても自分の感性を高めていくことが、自分の価値を引き上げることになる。それは個性をより輝かせたり、品格を醸成するということでしょう。心の豊かさとはなんであるかを明らかにして、心の豊かさを求め続けているかぎり、その人は心豊かに生きることができるでしょう。 作家・日野啓三 は、自らの体験談として、手術の長い時間が過ぎて麻酔が醒め意識が戻りつつある時、最初に見えたものは病室のひび割れた壁のシミ。 それがまぶしく見えた。 窓の外には霜枯れの枯れ草が風に揺らいで輝いている。その時、 自分は生きているのだと実感した。そして、この世がこんなに光り輝いた、すばらしい世界であることを、これまで思わずに暮らしてきたことに気づいたそうです。 大病を患い死線をさまよった方が、さまざまなものに以前にも増して新鮮なものを感じるという。また古希も過ぎ老いを意識するようになると、若い頃にはなかったことが新鮮に感じるようになります。今までの人生で味わったことのない心の高ぶりです。それは若き頃の異性に対する心のときめきのようなものではないけれど、いずれにしても死と隣り合わせでこその感性の高まりということでしょう。 |
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葉落帰根 生物は、生まれたら死んでいくものであるから、人間の身体も誕生したその時から老化が始まり、やがて死んでいくということです。老化とは加齢変化であり、病的老化と神経老化が加わると、病気や認知症などを併発します。老化を避けることはできないけれど、その速度を遅くすることは可能なようです。 人は死ぬものだということを、日常、全然忘れて暮らしています。死と隣り合わせであることさえ、さほど気にもかけずに日々を過ごしています。しかし、まさに死に直面したならば、生きていることを強く実感するのです。 死というものは自分の意思の及ばぬ先の出来事であり、誰もがその体験を語れない未知のことです。未知ゆえに死に対して恐怖と好奇心を持つのです。そしてそれは年齢相応に未来のこととして、今すぐではないと思うのです。未来といえども、その時が定まっていないから、自分の死を思うこともなく、また思いたくもない。けれども、何人もいずれおとずれる死からのがれることはできないのです。 「青柿の熟柿弔う」という言葉がありますが、自分より年若いものや同期のものの死を知らされると、命のはかなさを感じるけれど、自分にかぎってはまだ生きながらえることができると思い、そして、ある種の活力を与えられたように思ってしまうのは、人間のエゴかもしれません。けれども誰でも死ぬという原理を心得ておれば、親しい人の死に接することが、自分はまだまだ仕事をしよう、積極的に社会参画を続けていこうという活力源になる。これを人間のエゴというべきでしょう。 道元禅師は「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし、このときはじめて、生死をはなるる分あり。」といわれました。 煩悩が消滅して悩みも苦しみもないところが涅槃です。それは他ならぬ私たちが生活しているこの世界のことですが、そのことに気づいていません。生死をそのままに受けとめ、今を生きることにより、そのことに気づかされるでしょう。 秋には葉が落ちる、西から風が吹けば舞い散る木の葉は東に飛ばされ吹きだまる、木の葉は散って根もとの大地に帰り土になる、葉落帰根なり。それは、生死すなはち涅槃の景色です。
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